蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

肯定(三)

 遠い山が見える方角に夕陽が灯り、時計は夕方の五時を指していた。居残りが好きな人々を横目に徹は事務所を後にし、大手町の地下通路を西へ進んでいた。近くで夕食を済ませて行こうと思った彼は、通り道に接するとあるビルの地下入口へ入った。地上は黒光りをする柱で一杯だったが、地下は十年の賞味期限すら持たないだろうデザインの内装とサインに溢れていた。行き交う人々はいつもと同じく、幼い頃からなってはいけないと釘を刺されてきた醜悪な顔をしたサラリイマンだらけであったが、彼は息さえ止めればその影響も少なくなるだろうと視野を狭い前方に絞ってひたすら歩いた。
 窒息するほどに息を止めていたにも関わらず、ついにそれは彼の意識へ混入を始めてしまった。全く似合わない非文化的なコスチュウムプレイをした人と、そのコスチュウムプレイに憧れていつか自分もそうなりたいといった顔をした人が一緒に歩いているのを見ていよいよ耐えられなくなり、彼は千代田線のホームへ向けてすぐさま駆け出した。ここは大手町だし、それこそ民間の人々の中で言えば少なくとも普通の人々が持っているような水準を期待できると無知な彼は思っていたが、昼の声も、夕方の声も、彼らの持っているものも何一つ彼を満足させられるものはなかった。彼はこのズレのせいで、毎日何かがおかしい、後進国の秩序がない場所に来たみたいだという考えに苛まれていた。見もしない後進国のスラムを取り出してここと同じだ等と考える過程自体が、狭い視野しか持たない人間の無自覚な思い上がりであることに気づいてきて、いよいよここを何者にも喩えないようにしようと思い出した。
 乗り込んだ青帯の電車は、幾らか彼の視界を緩和してくれた。

***

 佑子との交際が二ヶ月を経過したある日だった。徹は気に懸かる事が多くて、肩すら極めて重いままで佑子と阿佐谷を出歩いていた。いつだって可愛らしい佑子だったが、彼女に慣れてきた彼は安心故か彼女に対して気をかけなくなることがあった。それどころか、彼は自身の憂鬱と頭痛を言い訳にしていつしか心身ともに甘えるようになっていた。ただ、この日は少し調子が違った。
「頭が痛む。疲れた。」
極めて短い幼児の口にするような文章しか発さなくなっていた彼を佑子はしきりに慰めていた。
「大丈夫だよ、安心して。そうだ、どこか珈琲屋さんにでも入らない? この先に行ってみたかった所があるんだけど。」
彼がぶっきら棒に嫌だと言うと、
「珈琲屋が嫌なら煙草屋さんがあるよ。きっと落ち着くと思うな。」
それにも疲れたとだけ返す不機嫌な徹に対して、佑子は精一杯尽くそうとしていた。
傍から見ても、まともな交際関係は既に壊れていて、ただ我儘を言う男の子とその世話に明け暮れる母親のような関係がそこにあるのは明らかだったが、彼にはそういったメタな認知の余裕すら残っていなかった。尚も彼は我儘を言い、ついには佑子に対して何も答えなくなってしまった。沈黙の後ようやく口を開き
「今すぐ接吻を。私は何もしないし君に対して一切寄っていかないけれど君は私に対して今すぐ一方的な接吻を献上して。」
と、刺すような目線とともに言ったのだった。徹は彼女を恨んでいたわけではなく、見下していた訳でもなかったが、ただ自らの制御ができなくなってしまっていた。彼は、容姿にも頭脳にも恵まれた彼女に対して嫉妬で一杯だったとともに、彼女との超えられない先天的な身分差の高い壁を感じており、これまで無制限の接触を許されてきた彼女に対して次の瞬間にでも触れられなくなるのではないかと恐れていた。恒常的なものを信じられない彼の自己肯定というものは、他者から肯定された数分後にはいつもその履歴を忘れ一切の肯定のない世界に彼を投げ込む性質を有していたし、それは承認者の身体がまだ生きていて、意志を変える可能性がある限りは本質的に除き得ぬものであった。いや、承認者の身体が承認の途中にその動きを止めようとも、承認を授けるだろう新たな主体をその数分後には探し求めるようにできていたから、彼のこの型の不安は自らと相互作用できる地平線のうちから全ての承認可能性のある主体を消さなければ安定を得られないものであったのかもしれない。佑子は彼の身体の至る所に向かって、でき得る限り最大のバリエーションを以て接吻を押して行った。この場が駅からそう離れていない住宅街の中であることなどには目もくれず、彼女は彼女で自らの見ている世界から空隙が発生するのを本能的に恐れ、悲しそうに優しい色を目に浮かべながら接吻をしていった。
 彼は、生殖も何もかも済ませてしまっており、それ以上の自分への承認の証明として、何の脈略もない貢ぎ物を要求した。それは高価であったため彼女にとっては半年かかっても取得が難しく、且つ彼女ではない他の人に彼を承認させるのに役立つ道具を幾つか要求するものであった。
 二人の関係は、漸くここで破綻した。

***

 帰宅した徹は、思考が真っ白になってしまい壁を見つめていた。三秒ごとに長いまばたきをしながら、見ている壁に焦点すら合わせずただ座っていた。一時間程座っていたのち、置いてある本の背表紙の文字を意味もなく上から下へ読み上げては、失った人のことを考えていた。気づけば目の形と色しか覚えていなかったが、それでも佑子の目は彼女を全身に渡って背負える優勢な特徴であるのだった。彼は夜が更けるまで、背筋が横へ傾いた姿勢のまま腕を床に向けて垂らしていた。夜の九時に近づいた頃、ただ次のように呟いた。
「可哀想な事をしてしまった。」

***

 それから数日の間、徹は彼女と連絡を取る事ができなかった。そろそろ二週間経とうとした時、彼は佑子と電話を繋ぐ事ができた。彼が何を言おうとも彼女はやはり肯定してくれた。彼が再び傍に行きたいと言ってもそれを肯定した。ただ、話は続いて今どう思っているかを聞くと何の前触れもなく、
「気持ち悪い。」
というか弱い発声と共に電話が切れてしまった。
 その後の彼女については、何もかもが手遅れであった。彼がとあるペンについて感想を言うと、
「どうしてそんな事を思うの。気持ち悪い。」
彼女の好きだった所を口にすると、
「え、何故。気持ち悪い。」
その他にも、彼が他愛ない話を切り出すと、
「何故そんな気持ち悪い事を考えるの。気持ち悪い。気持ち悪いと思う。」
こうして、彼は最後の挨拶のための機会すら零してしまった。