蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

肯定(二)

 何の変哲もない、何一つ得るものがない日であった。何故こうも非文化的な作業の繰り返しをするだけの生を送っているのだろう。そう感じることができればまだましであるようにすら思える日常の中に居た。徹は、理学の博士号を得てから、とりあえずの日銭を稼がなくてはいけないと気付き、求人広告を上から三つ程当たり、その内一つが教養教育レベルではあるが少なくとも数学を使った仕事ができる事から、入社を決めたのだった。今の仕事に就いてはや九ヶ月が経ち、新しい金町の家にも、事務所へ行く千代田線のラッシュにも慣れ、本来であれば社会人ならではの展望や楽しみを持っていても違和感ない時期であった。だが、今の彼には展望も好奇心も持つにはあまりにも高すぎるものであった。一日は事務所における九時間の労働と家事で埋め尽くされて自由になるのは二時間程しかなく、また何かを為そうにもその資金すら用意できなかった。そもそも、何が彼をしてこのような境遇に貶めたのかと言えば、彼自身の世間や時間やお金に対する一般的な予備知識の少なさであり、一日の時間の空きだとか生活に必要な資金を博士課程までを全く気にした事が無かった彼は、社会人となれば少なくとも博士課程在学中よりは全てにおいて自由が効くようになるだろうとしか見当をつけてはいなかったため、いや、むしろその程度の世間感覚しかなかったからこそ、何も疑わずに適当な就職を決めたのだった。
 徹は、自らがそれなりに宗教的な考えの許にあり、つまり敬虔である事を自覚しており、且つまたそれを自ら正そうともしなかった。基礎知識が彼からずっと遠い所にいる人から見れば、彼が信仰しているのは何かと問われれば無宗教か、あるいは自然科学を信じていると言ったのかもしれないが、実際の彼は自然科学を宗教として眺めるほどに前現代的な人間ではなかった。自然科学は反証可能性の保たれる範囲では正しいものとして認めていて、一方で彼がいちいち信仰を持ち出さないといけないのは、自然科学を遂行する際の細々とした手続きについてであったが、これはポステリオリな観測が一切成果に関与しない数学という作業を除けば、誰であっても直面しただろう現代に尚残る不完全とも言えた。自ら正さなかったのは彼の甘い所であったし、同時に、のちに彼の弱点となることは容易に予想できることであった。裏を返すと、彼はナイーヴでふにゃふにゃとした自らが行う判断を含めて、ふにゃふにゃとした人間性が存在している事を愛していたのだった。

 徹は赤色の灯下を吊り下げた自室で、ブランデーをゆらゆらと振り子のように揺らしながら昼の社会を埋め尽くすコスチュウムプレイについて思い返していた。汚くて黴の匂いと加齢臭が鼻を突く千代田線の中でそれはいつものように始まり、乗る客の九割が似合いもしない西洋装束に何かしらの局所的な価値を押し付けて、自分の顔と存在がさもこの世に堂々と見せていて構わないものであるかのように、恥ずかしげもなく外界に姿を表している。人が何を信じてようが、どのような価値の評価関数を採用していようが特に関与せずにありたいと思っていた彼は、少し滑稽だとは思いつつもやはり否定する気にはならず、避けようとも思わなかった。人は基本的に美しくないから、どんなに似合わないコスチュウムプレイをするのも自由だ。私はそれに関与しないし、影響を受けるつもりもないのだ。
 大手町で緑色を纏った電車を降りて、京浜線のガードをくぐり、灰色をしたビルのエレベエタへ辿り着いた。図鑑に出てくるようなサラリイマンやOLがぞろぞろと集まっていた。顔を引き攣らせながら幾つかの決まりきった挨拶を交わすも、これは恐らく第三者から見ると騒音でしかないのだろうか、あるいはこれを他の人は肯定するのだろうかと気になったのだった。恐らく、これはこれで必要悪なのだろうし、誰一人として憧れておらず、他人が誰もこの儀式を望んでいない事を共通の理解として暗に共有したまま、この決まりきった五月蝿い儀式をこなしているのだろうと思い、他の引き攣った顔たちに同情の念が湧いてきた。この格好の悪く黒い、それでいてベタベタとしたこれまた不格好なコミュニケーションを伴った集団コスチュウムプレイに対して厭がっているのは私だけでなく皆同じなのだろう、そう考えてこの違和感に説明をつけておいた。
 再び前の赤く灯ったブランデーに目線を戻した徹は、これ以上解決の仕様がない違和感に対して思いを巡らせる事をやめ、進んで考えたくなるような事に興味を移そうとしたが、目の前に鉛直にうず高く積み上がった本の列の背表紙それぞれが痛くなるほどに異なる分野の興味を脳の中に喚起し始めたので、一気に様々な体系が同時に一時記憶に展開されてしまい目眩を覚えた。

***

 水曜は、佑子が家に来てくれる日だった。仲良くするようになって二ヶ月になる佑子は、大学で日本画を専攻する二十二歳の女で、日暮里に住んでいた。徹は、決して異性が至近距離に居る空気に慣れた人間ではなかったが、それでも大抵は一度承認を交わせば慣れるようにできていた。しかし、佑子の前に立つと何度目であろうと初めてであるかのような緊張を催すのだった。これまで何度か佑子との音信が途切れた事があったが、その度に頭の過半の領域が占有され、性欲とも承認欲求でもない、不安感と寂しさだけによって一日に四度と衝動的な自慰に耽り、それでも精神の安定を見ない時は血すら流しながら悪い循環に陥っていくのが常であった。
 自室に入ると既にすぐそこにぺたんと座っていた明るい影があった。恥ずかしそうに瞼を素早く開閉させてこちらを見ている姿を見て徹は心から安堵をした。特別綺麗な容貌を持っている訳ではなかったが、彼にも彼女にも全く解析できない不思議な魔力により、彼女が居る風景は彼を生涯で最も安心させるようになっていた。

 そもそも佑子は、徹に負けず劣らず自己肯定感が低い人間だった。というのも彼女は誰もが認める極めて優秀な能力で満ち溢れていたが、一方で生い立ちに少し特殊な事情を抱えていた。彼女の親は両親こそ揃っていたが、家で思想に傾倒し売れもしない執筆活動に耽る父親とヒモである彼を支える母親によって構成されており、暴力や罵声こそなかったが、父親が日常的に他の女の許へ行き帰ってこない離散すれすれの家庭をなしていた。佑子は母親の収入のみによって学資や生活費を得ることができており、母親には返しても返しきれない程の申し訳無さと後ろめたさを感じていたが、一方で父親のようなヒモ気質の人間を恨むことができなかった。それどころか、思春期までの間数少ない味方で居てくれた父親の事が好きであり、知らず知らずのうちに積極的な肯定を与えていたのである。彼女の父親に対する肯定は、男女の交際が可能になった途端に父親に良く似た、一人では立てないような、彼女への精神的・物質的双方の依存を必須とするような男の人を積極的に引きつけ、一層大事にしてしまうという所に明瞭に現れていた。彼女の自己肯定感の低さは見る見るうちに極端になってゆき、セックスを提供しなければ私は貴方と喋ることすら許されない、私なんかが貴方の時間を専有するのは申し訳ないと思い込むようになり、自分と単に会話をしてくれるという事の対価・あるいは餌として体を提供するべきだという義務感すら持つような人間に成長していた。
 徹は彼女を見る度に強い承認欲求と庇護欲を喚起させられていたので、居合わせている間はずっと抱擁し、繰り返し頭を撫でていた。彼としても、何らかの計算や策略を交えず「頭を撫でていたいから」という理由でずっと頭を撫で続けた相手は彼女が初めてであり、彼女の説明不可能な引力はここでもはっきりと系に対して目に見える形跡を残していくのだった。勿論、彼としてもその引力に対して正常な交際を提供できていたわけではなく、ある時彼女の目が作る引力に釣られて彼女を自らの家に閉じ込めてどこへも行かないようにした事があったし、また別の時には、彼女が許容するのを良い口実として、夜や朝の区別なく一方的に交わっていた事があった。徹はいよいよ自らの人格が破綻していくのを自覚していたが、それでも彼女の魅力には全く抗えず、お互いの人生を壊してしまうのではないかと薄々感じていた。

 彼女は徹が何かの作用を及ぼすと、いつも嬉しそうに笑うか悲しそうに笑うのだった。二人が一緒に居る時間は、それぞれにとって幸せという言葉では到底表せないくらいに満ち足りたものであり、その一瞬のために将来を全て犠牲にしても構わないとすら思えるものであった。今夜は、見切り品の食パンと少しのお菓子とさくらんぼのビールのみを二人で少しずつ分け合う夕食だった。赤い灯火しか備えていなかった彼の小さな部屋で、赤いビールを片手に安楽し合う瞬間は、戦後の貧しい境遇を移した映画の一場面にもそっくり似たものであったが、それでも二人はこの瞬間が幸福そのものであった。徹は、少し生活を良くしなければという意志を完全に忘れてしまい、今の自堕落な時間が一生続けば良いのにと思った。

***

 何の美しさをも持たない昼が戻ってきた。
 徹は、事務所で彼の上司から新しい設計を作れと言われた。その際に解像度の粗い時代に流行った汚いエーエフ体を使えと何度も強調がなされ、その他も神のような表計算作りについて上司が新しく信仰に取り入れた教義を三十分に渡って聞かされた。色彩、配置、そして言葉選びについても明らかに可読性を疑うものであったが、以前にそれを問い質したところ大声で「俺は頭を使うことができるのだから俺の言うことに従え」と返答され、議論ができなかった記憶があるので、今回の色彩や書体の指示についても適当に首肯しておいた。ただ、今日の徹の運は輪をかけて悪く、徹と同時にここへ入ってきた同僚の悪口を、軽蔑気味に、かつ変に馴れ馴れしい声で徹に吹き込み始めた。徹は、頭が痛くなってきたので首肯をやめ、なるほど、なるほどと棒読みのごとく繰り返していた。誰をも否定したいと思わない彼であったので、今馴れ馴れしく彼に悪口を吹き込んでくる本人のことも存在としては肯定してあげようと考えていたし、悪口を言うのも生理現象なのだろうと思っていたため、彼ははっきりと口の中ですら否定する気にはならなかったが、ただどうしてこんな民度の低い世界に自分は座っているのだろうと考え始め、先日世の中に蠢くコスチュウムプレイについて抱いた違和感を更に増幅させたような違和感を得た。すっかり気が逸れてしまった彼は、仕方なしに
「まあ、そんな事もあるのではないでしょうか。」
とだけ返しておいた。

 いつものような、何の美しさをも持たない昼は、尚も続いた。
 その日の昼食は年齢の似通った三人で、隣のホテルの地下にあるイタリアンレストランへ行くことになった。一人は五歳年上の男の人で、もう一人は徹と同時に入ってきた二十二歳の男の人であった。徹は西洋料理について何の興味も抱いていなかったので、このレストランについても全く興味はなかったが、イタリア料理が好きな人の意見に対してはそういう嗜好を持つ人も居るのだろうという立場だったので料理に特に興味はなかったが適当に席を同じくしていた。
 徹は荒川下流に広がる街の標高のデータを出して、地下水の汲み上げが広い地域に及ぼす影響を少し興奮した様子で語っていたが、他の二人はあまり興味がないようで、料理が来て話が途切れてしまったところで年上の男は自分の持っている財布のブランドについて話し始めた。徹はふむふむと聞いていたが、財布と時計に印字されたフランス製のエンブレム自慢が始まって三分経ったあたりで、頭が重くなってきた。徹が適当に微笑んでいると、年上の男からは先日貰った総務省勤めの高等文官の名刺についての話が始まったので、何処に持っていくつもりなのか分からず聞いていると、どうも高等文官の名刺を多数持っている事を誇っているということが分かってきた。徹が一周回って理解した頃には徹の顔は若干疲れており、相手が実に奔放であって今繰り広げられてるこの会話はなんて平和なものなのだろうという結論に頭の中で無理やり落とし込もうとしていた。徹は、決定的な害を徹に対して及ぼさない相手に対しては否定を投げたくなかったので、相手の汚い顔を「可愛い」と思いながら眺め続けていた。ただ、相手の顔ではなく徹自身が今このような場所に居る事自体に対して、若干の後悔を抱き、同時にここは大手町であるにも関わらずまるで後進国のスラム街に居るかのような違和感を得た気がした。
 次の会話は年上の男が代官山に住んでいるという話だったが、その頃になると彼は関数の参照透過性の事だけを頭の中に展開していて、特にその後の話の記憶が残らなかった。

***

 トルコランプが美しい暗がりの部屋で、ベージュの色をした紅茶を静かに嗜む夜だった。佑子と歩く日暮里はいつ来ても懐かしくて、且つ古くからあっただろう深い店を新しく発見するに事欠かなかった。日暮里に来る度に、荒川区に広がる下町と山手を交互に巡っていたが、それぞれの良さにはいつも疲れた心を癒やしてもらうのだった。特に佑子は谷中に詳しいと来たため、知り合って以降益々徹の中における日暮里の理想化は進んで行った。外は既に天文薄明の時刻に入っており、根津や団子坂の方角に灯る街路の光が、空の紺の中に玉となって浮き出ているのを見るにつけ、このまま消えてしまいたいと思うのだった。
 この女を見ていると、時々自分に似ていて可哀想だと感じることが徹にはある。彼女は、何を主張するにしても常に謂れのない中傷を受けることを想定していて、事実徹はそのような事をしなかったが、これまでの半生において常に世界から虐められて来たのだろう事を匂わせていた。何か言い終えた瞬間に、――いや、そもそも初対面で一語目を発した瞬間の挙措と声によって、否のフィイドバックに直面してきたのであろう。悲しいかな、それらの事が積み重なり、彼女は意見をマスクによって固く覆うような大人に育ってしまっており、あたかも異性と絶対的な管で結びついている時以外は常に演じられた仮面を被っているような虚ろさがあった。徹は、自分とはそもそもの頭の出来から違う彼女に対して認めたくはない潜在的な嫉妬と羨望があったが、決して噯にも出さず、また意図的に打ち消すようにしていた。これは別に彼女を包摂したいだとか、安心させたいとかの感情の下に行われたのではなく、ただ彼が異性に自らをどこまでも晒すことに慣れていないことによるものであった。
 日暮里での時間を済ませると、二人は西日暮里から金町へ向かう常磐線に乗った。佑子はロングシイトに座り、その前に徹は吊革を持ちつつ彼女の方を向いて立っていた。佑子はいつもの仮面のうちに、少しだけ赤らめた他の表情を見せていた。
「私、お互いのためにならないと思うから貴方とは絶対に交際しないようにしたいと思っていたの。でも、本当は貴方と一緒にいたいのです。こんな事言うのは本当に恥ずかしいのだけど、貴方だけは私の事を何でも受け入れてくれるのでしょう。貴方と今一緒に居られるの、本当に嬉しいよ。」
車内で突然絞り出すように言われた徹は、狼狽しかける心を抑えて佑子の頭を繰り返し撫でていた。今日はっきりと、彼は彼女に、今までよりもずっと深くへ受け入れてもらえそうな予感がした。

 深夜の二時を回っていた。お互いの奥まで触れた後にも関わらず、佑子は恥じらいながら自分の口を隠してこう言った。
「ずっと、私は画家になりたいと思ってて、そうなれれば他の事は何も残らなくて構わないと思ってた。でも今は、もし画家になれなくても貴方とずっと一緒に居れたらそれだけでいいんです。私は貴方のお嫁さんになりたいよ。」
「毎日、貴方と一緒のお布団で寝て、貴方が朝出て行くのを見送って、貴方が毎日帰ってきてくれればいい。貴方をずっと繋ぎ止めておけるだけで幸せ。」
すぐにでも泣き出しそうなか細い声は、徹をどこまでも承認した。彼は、ここに来てようやく交際の許可を貰ったのだった。尤も、彼も彼女も、人との深い交わりを長くに渡って維持するに足る能力などありはしなかったのだが。