蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

肯定(四)

 翌朝、佑子を完全に失った徹はどこを見るということもない目を漂わせながら、顔を洗い駅へ歩きホームへ上がり電車に乗った。いつもであれば、嫌いではない音や光に朝を感じ、一日の中で束の間の心地よい時間となるのであったが、この日は何も思考することはなかった。千代田線にどれだけ長く揺られていたのか分からないが、彼の考えには何の休息も与えられぬまま目的地へ着いた。彼は思考する能力を残していなかったが、彼の足は彼を天井が低い大手町の地下通路の中を通って勝手に職場へ運んだ。仕事を始めても何か能動的な事を思考することはなく、自らの行動計画もなく、目に見えている事だけを無表情の機械のように経るかのごとく済ませていった。夕方家に帰り着いた彼は、やはり何も考える事はなかった。天井を見たり、並べてある本の背表紙を見たり、壁を見続けていた。ベッドの横に落ちていたペーパーバックの本を手に取ったが、何も頭に入ってこず、同じ行を半時にわたり眺めていた。思考能力を失った頭と視線で同じ行を何度も上下していると、ある言葉が口から漏れた。
「気持ち悪い。」

***

 それからと言うもの、一人で居る時間は自慰のみに耽っていた。そこからは最早何も出ては来なかったが、自慰の中で呟く「気持ち悪い」という言葉と自然に湧き上がる微笑みは、彼に落ち着きを与えた。
「気持ち悪い。」
改めて発音してみると、自分の声が少し透き通ったような気がした。彼の声は綺麗ではなかったが、この言葉を言っている時だけは彼の声は綺麗な音をしていた。
「気持ち悪い。」
顔が自然と綻んで、自らが意地悪な表情に変わっていくのを感じた。

***

 嗅覚に何か変化があった日ではなかった。大手町で下車し、地下道を歩いていると視覚が気持ち悪いと言い出した。すれ違う男の顔を見るまでもなく、服の脇の下に出来る皺が目に入った時にはっきりと「気持ち悪い」と感じた。灰色で皺が寄ったスーツの作る陰の皺がとてつもなく気持ち悪かった。徹は、他人や、他人の身体の一部となり得る程他人に密着した存在を気持ち悪いと思ったことが一度もなかったので、すっかり驚いてしまった。目を瞑ったが、何故かそれは酸欠のような気分を彼に与えた。仕方なく別の方を見遣り、やり過ごそうとしたが、そこで目に入った女の頬がなんとも言えない臭さを彼に与えてしまった。その頬は、実際のところ何かの匂いの分子を発散していた訳ではないし、特に悪い容貌を持った顔でもなかった。それどころか、その女の顔は平均よりも幾らか整っていたのだ。彼は咄嗟に肌色の上に気付くか気付かないかくらいの塩梅で乗せられたベージュに吐き気を感じた。そこに表現されたほんのわずかなグラデーションが、彼を気持ち悪さの渦に巻き込んでしまった。
 目を逸して歩き出し、まっすぐと前を見つめたが、今度は正面から歩いてくる人のボタンが目に入った。それは、焦げ茶色をした樹脂製のありふれたものであったが、通路の座標で言えば中空にあたる位置をこちらへ近づいてきていた。焦げ茶色が持つほんの少しの有彩が彼の目を腐らせていく感じがした。すれ違う際にそのボタンの持ち主から漂った微かな洗濯洗剤の石鹸風の香料に、彼は強烈な臭気を感じ、すぐさま息を止めた。彼はこの嫌悪感の正体が何なのか悟り得なかったが、この場と体調のどちらかに問題があるのだろうと考えて走って職場へ到着した。職場の中で彼を待ち構えていたものは、昨日夕方に中断して机に広げておいた作成中の資料だったが、その日本製の罫線の安っぽさに嫌な気分を感じた。いや、その原因が安っぽさにあったのではなかった。そのノートの銘柄が勤務している会社が一括して大量に買ったものであり、同じものが周囲に点在しているために嫌に見えることに気づいた。横にも、隣の席にも同じものが置いてあり、そのノートがまるで気持ち悪い物の鋳型そのものであるように感じられた。

 午前の十時を回った頃、徹に上司が一昨日作った要件文書について話しかけてきた。今出来ているものは説明対象を手近な人に絞ったものとしてそもそも作られていたから、それを更に別の人へ説明するためのものに作り変えて欲しいというものであった。だが、応対している最中ずっと、喉に響かせたよう少し低めの声が何故か他人に向けて自己を誇大にアピールすべく意図的に造られたような質を持ったものに聞こえ、内容こそ頭に入れることはできたが常に指の先は痙攣していた。いや、意図的に造られたように聞こえただけではなく、彼は実際人を動員するための意図しか持たないその仕組まれた声に気づいてしまい、瞬間的に意識が遠のきそうな感覚を覚えた。徹はこれを何とかして抑えると、上司の話にはまだ続きがあったようで、今度は他人が作ったスライドを見せられた。三枚目をめくったところで、この図の書き方があまり格好良くないと思わないかと同意を求められたが、その間じゅうしきりに流し目で飾った顔を徹の方に向けてくるのだった。今度は流石に、徹の感じる気持ち悪さが閾値を超えていくのに気づいた。この人は何故要りもしない会話をわざわざ挟み、否定するための第三者を用意し、「話している」というこんなにも気持ち悪い実績を作りに来ているのだろう。こう思った瞬間、表情の一つ一つが限りない頭の悪さを示すためだけに存在していることに気づいてしまい、反射的に目を閉じて小さな声で呟いたのだった。
「気持ち悪い。」
相手はそれが聞き取れなかったのか一瞬不思議な間を置いたが、徹は人が本質的に気持ち悪いものであることに気付き、生涯初めて人を説明できたように思えた。

 昼休みになると、徹は同僚たちと近くの洋食レストランへ向かった。朝と変わらぬ悪臭漂う街並みは彼にまったく慣れを齎さなかったが、一時的な諦めによって歩くことはできるようになった。黒板風の小さな立板に書かれた今日のメニューに何か嫌悪を感じながら店内に入ると、木製の椅子に案内され、そこに人間のような生体的な質感を感じて躊躇しながら腰をかけた。
 食べている最中に同伴した人々は何かを言っていたが、彼は殆ど耳に入っておらず、その声質が大人の男性独特のゾワッとする腐臭にまみれていて、時々こちらに向けてくる顔から見える前歯や眉間の筋肉の動きが耐えられないような造形であるように感じられてきた。それから先は、出された料理の過度な盛り付けを見ては自分の口の形・食文化の他害性を想像してしまい鳥肌を誘い、全体的に木材で造られた壁に対しては後ろにそれを良しとする人々の矮小な自意識が透けて見え、それらの人や素材が作り出した場に自分が動員されていること自体に対して生理的嫌悪を感じた。少し下方から大きく視線を動かさないまま過ごしていたが、気持ち悪いということ以外の言葉は頭のなかから消えていった。

***

 窓に広がる真っ黒の夜に点在する街の明かりが、気温の冷たさを視覚的にも強めていた。自室からは数キロメートルの先が見渡せ、どの方向についても一様に光点を見つけることができた。呆然と外を眺めた後、コンピュータに目を移して幾つかのニュースを眺めたが、表題が内容を完全には反映せず意図的に煽動的であるものであったり、未定義の語を敢えて使っては閲覧数を上げようという意図が感じられたり、そもそも情報がない随筆であるにも関わらずコラムを自称しているものを見るにつれて、画面を見ることすら辛くなってきた。彼は記事の後ろに何らかの媒体内個人に依存した寄与を感じ取ったが、それが彼の神経を追い詰めるものであったらしい。彼はこれ以上人の恣意を感じたくはないと思っていたし、自分を含めた一切の人が生きている事自体について生理的な嫌悪を感じていた。
 一切のノートやコンピュータを閉じて机に置き、徹は静かに首を前に傾けた。しばし床の一点を見つめ、どれくらい経ったのかも分からなくなった頃、佑子を撮っておいた動画を流した。それは暗いベッドで撮られたものであったが、不思議とそこに写っている人は気持ち悪くなく、時々顔をしかめたり悲しそうな目を浮かべるところを見ても、徹は全く気持ち悪さを感じなかった。それどころか彼が見ていたものは、極めて必死に生きようとしている人の顔であり、それに似つかわしい物語を背負った人は世の中を探しても見当たらなかった。彼の見ている動画の中の女の子だけが世界の中で必死に生きようとしており、一方で彼女自身の聡明さによって何重にも生きることを阻まれているのを知っていた。
 ふと彼女の残していったものを手に取り、顔をそこにうずめた。それは布で、――実際のところ、下着であったが―― この他の衣は皺が寄っておりくすんでいるのに、それだけは何故か命を持っているかのように表情を持っていた。それどころか、そこには悲しい顔がありありと映っていた。この一点だけは確かに気持ち悪い存在ではなかったのだ。彼は改めて「かわいそうな事をしてしまったなあ」と呟いた。

***

 その夕方は、空が殊にスモーク色をしていて且つ遠かった。徹は、赤い色をしたビールを片手に物思いをしていた。
 ポステリオリな知の体系を持った色々の分野のことを考えていた。だが、それぞれを考える際にどうしても考えを遮断してしまう生理的嫌悪に当たらざるを得なかった。検討が不十分なまま進み、社会的参照が何重にも重ねられたものが、知となっていくのを彼はびくびくして見ていた。彼は、その後ろにとてつもない人間性の存在を感じていたし、同時に傍若無人で粗暴に働く人の作為を感じないわけにはいかなかった。このヒロイズムからは、自分に利益を誘導しようとする顔がありありと浮かび上がり、その暴力性は彼の鼻を腐臭で窒息させるのだった。そして、彼はいよいよ知的なものが気持ち悪いと思うようになった。いや、知的と目されている体系と、そこにぶら下がっている人間と、それを笠に着た世の中に溢れる文字列の全てが気持ち悪いと思うようになってしまった。恣意的で欺瞞を含んだ知に対して、最早批判ではなく、単なる生理的嫌悪が湧き上がっていた。これは他の生理的反応を引き起こし始め、彼は頭痛で倒れ込んでしまったと同時に、視界が酷くコントラストの落ちた世界に変わるのを感じた。自然に生まれなかったもの、生まれる必然のない事物・概念が全て気持ち悪くなった。
「気持ち悪い。」
今回は、口に出してみても収まりを見せなかった。
「気持ち悪い。」
だが、気持ち悪いという感情だけは疑い得なかった。他の全てのポステリオリな概念は気持ち悪がられ、吐き気を催させるものだったが、気持ち悪いという生理的嫌悪だけは自身を否定しようとしなかった。つまり、生理的嫌悪は彼の生理的嫌悪自体を気持ち悪いとしなかったのだ。他の多くの感情は全て誰かによって動員された結果かも知れない、けれど気持ち悪いという感情はそれ自身を否定しようとしないし、仮に他人からこの感情の存在を否定されたところで、その否定自体が気持ち悪い意図を持っている気持ち悪い訂正行為に他ならなくて無効化されるのだから、生理的嫌悪は内からも外からも訂正されずに済む。彼は救済を感じた。
「僕の気持ち悪いという感情だけは確実にここにあって、他の誰からも有効な訂正を受けず、通時的にこの感情は信じられる。」
 彼は、自らに内在する生理的嫌悪を肯定しようと思った。楽しさや嬉しさ、妬みや怒り、その他のほぼ全ての感情は誰かによって仕組まれたものであるかもしれない。そして、それを心に抱いたとしても一秒の後になくなっていて、実は何も感じていなかったのかもしれない。知的好奇心だってその通りで、自分が本当にその対象を知りたいと考えていたのかは疑わしく、疑った瞬間に実は消し飛んでしまうものなのかもしれない。だから、自分の知的好奇心を疑うのを意図的に避けてきたのだったが、生理的嫌悪だけはこの瞬間確かに存在し、常に疑い得ない。何故ならば気持ちが悪いからだ。生理的嫌悪を持っていたかどうかを決めるのも自分自身だ。彼は気持ち悪いという感情を丹念に拾って大事にしたいし、全てを否定しようとする自分の心を肯定しようと彼は思った。

***

 全てを否定しようとする彼の心は、日に日に彼自身の希死念慮自体に対して気持ち悪いと思う感情を生じさせてきた。このままでは最後まで書き終わらない、そう思った彼は吸ったことがないほどの大麻を摂取し、灰色の万年筆を片手に手紙を書くことに専念し始めた。良い日であった。涼しい風を感じた。泥の中に居て、起き上がろうともしないような朦朧とした意識。それは遺書を書くことに対する気持ち悪さを軽減してくれる。

佑子さま

 最後の承認をありがとう。

 貴女と私が別世界に生き別れてから二月が経ちました。如何お過ごしですか。
 私はこのふた月の間に、生涯最も幸せな時間を過ごしたのだと思います。貴女に最大限の拒絶を頂戴して以降、貴女が私を根本から否定してくれたことは私に改めてこの世界を徹底的に懐疑する力を与えました。貴女は、美しい声で「気持ち悪い」と言ってくれました。ほんのこれだけの言葉ですが、私は誰にも愛されたことがなかったために、このくらいの中身を含んだ言葉すらかけてもらえたことはなかったのでした。そして、これを言っている貴女の顔が思い浮かばれ、それはかつて濃密な承認をくれた時に比べても、一層世界を惹き付ける美しい顔をしていたのだと思います。私は結果的にこの愛情だけで後の幸せに辿り着くことができました。
 貴女の言った絶対的な言葉は私の中を繰り返し走り回り、全ての汚い構造や作りかけで放棄されていた構造をまっさらにしていきました。そして、ついに私は (理由なしに) 気持ち悪いと思う心を生まれて初めて獲得したのです。今にして思うと、私の生き辛さの大きな原因の一つがこれだったのだと思います:乃ち「何かを気持ち悪いと思ってはいけない」と世界の規則をどこからか捏造し、自ら捏造した規則を幼少期から厳格に内面化してきました。幼少期ならば人は尚更背景規則を見出したり、全体を統一された少ない原理で動かすことを好みますから、その頃に自らこの規則を大喜びで発見し、自分の首に枷としてかけてしまったのでしょう。大仰な枷は、彼の一つの背伸びとして初期化され、以降自らを示すアイデンティティとして彼を呪いました。いわば呪われた鎖を自慢していたのです。美しくて、この上ない聡明な貴女は、この規則を取り払い、物事や人を「気持ち悪い」と感じても良いという自由を私に齎して下さいました。
 生理的嫌悪について一年生となった私は、まず素直に気持ち悪く思うべき存在を気持ち悪いと言うようになりました。その存在とは勿論自分自身です。これは私の顔をよく知っている貴女なら自明でしょうけど、漸くあの嫌な博愛主義から解放されて、初めて必要十分な気持ち悪さの評価ができるようになったのです。それから先は立て続けに起こりました。出会う全ての人々、世界にぎっしりと隙間なく満載された物体、熱いとか寒いと言った形容詞対、社会や個人に蓄えられた記憶や技法、人と人との関係自体や物と人との関係自体、及びこれらを抽象化して記述した観念や文字列、そして私がのうのうと生きて世界を観測し続けているという事実全ての気持ち悪さが洪水のように流れを打って発見されていきました。ですが、聞いて下さい! 特筆したいこととして次の二つをも一緒に発見してしまったのです。(一) 気持ち悪いという感情自体は決して気持ち悪くないし、他の誰からも覆すことができないということ、(二) 貴女は気持ち悪くない唯一の存在であるということ。後者については、恐らく私に知を授けてくれる大元となった存在故に気持ち悪くないのだと思います。結局全てを否定し終えた私は、世界を観測していることに耐えられなくなりました。よって、こうして最後のお手紙をしたためさせて頂くことになりましたが、シニフィアン自体も気持ち悪いのでこれを書いているのもなかなか大変なんです。

 貴女と交際している時、貴女が身体も精神も、倫理や世界のフレームまでも私に預けてくれたのは本当に嬉しいことでした。私の人生は、交際している時の貴女と、別れる時の貴女の残した言葉の二者だけにより承認されることができました。最後にして唯一の承認をくれて感謝しています。ですけれど、正直に白状すれば世界の観測をやめてしまう前に一度だけその瞳で僕の方をじっと見て欲しいと思うのですが、この手紙が届く頃には既にそれが虚しくなっているでしょうし、私はただ貴女への憧れを書き残すだけにしておこうと思います。最後に、私は貴女によってこのような結論に到達しましたが、予め言っておいたように私はリバタリアニズムを根底に持っています。だから、貴女が私と同じ結論に至ることを望みもしませんし、違う結論に至ることを志向することもありません。私は私一人の管理しかできませんし、それ故に無責任な支配を人に対してしたくはありません。よって、同じ結論へ身を投げるならそれによる生からの承認を、違う結論に身をやつし続けるにしても他者からの承認を獲得できるよう応援しておきますね。

 貴女とお会い出来て、お互いに大きな影響を与えられたことは永久に大事な思い出です。ありがとうございました。