蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

教育という装置の発明

 貴方は教育を受けたことがあるだろうか。私は生涯で一度も教育を受けたことがない。故に教育を外からしか眺められないが、外から眺められた教育が如何なるものであるかを被教育者たちに表示しておきたいと考えた。以下はその目的のために費やされる。

I. 教育という装置の発明

 教育は広く行われ、また極めて多大な時間を一人一人の被教育者に費やさせて行われる。特に日本では、教育は三歳を迎えてから二十五歳や三十歳*1に到達するまでの長い年数と、且つその間の殆どの時間的分率を占めながら行われる。そもそも三歳から三十歳といえば莫大な時間の量であり、生物的には生殖適齢期であったり、被教育者本人としても常に物思いに耽った自由な思考に費やしたい貴重な期間であるが、それを二十年以上に渡って独占するのが教育であり、また教育にはそれをすることができる正当性が社会から与えられている。つまり俯瞰すると、教育がどんなメリットを齎すと言われていようが、人の時間を独占し消費するという極めて大きな損失を追わせているのは事実である。ここで私はもう一歩踏み込んで指摘しておくと、教育は被教育者の時間を搾取することで損害を与え、また被教育者の資産・人間関係・体力やその他通学的設備に対して大量の資源を消費させることで、被教育という過程を強く正統化し、その中で教え込まれ、自発的に覚えようとさせられるところの知とされた体系を「習得して意味があるものである」と洗脳する働きを持っているのではないだろうか。

 時間をはじめとした被教育者の多くの資源は、それを費やしてしまったという事を否応にも正統化しなければならないという自発的な圧力と、その占有により諦めざるを得なかった他の多くの本能的・知的活動からの妬みと呪いの言葉を自らのうちに纏いながら、呪詛が放った目的は実効されていく。また、長い時間を ――漢字を覚えるだとか、自然数のラベルを覚えるだとかに代表される―― 辛い苦役とともに過ごすことによって、思い出として定着させる働きがあることを忘れてはならない。苦役と資源の動員は、それが少量であれば被教育者の精神をプレーンに保っておけるが、この教育という装置はあまりに巨大すぎて彼の親であるかのような存在となり果て、彼や彼の同窓生たちの支配者であることを続けすぎた結果、いつしか神として君臨せざるを得ない・絶対的な善性を持つ神として擁立しなくては彼らが耐えられない程度に、人生の時間に入り込みすぎているのだ。一時を殺せば搾取者であるが、数千日を殺せば英雄となることができる典型例である。
 教育が実施される過程のうちで一際異彩を放つ濃密な装置がある。それは「試験」である*2。試験は被教育者たちの集団を或る決まった一方向に向かせることができ、また彼らは一方向を目標として目指すことを強制されるが、彼らの前に突如天下り的に現れた ――浮遊した―― その目標が恣意的であるかを殆ど疑わせずに済むような装置なのである。恣意的であるかは一瞬または一部の被教育者によってしばしば疑われるかもしれないが、試験は同時にこの目標の達成をあたかも競技のように配置し、結果として競技に参加する楽しさが無言のうちに内包された小さな物語を以て彼らを包んでしまう。こうして、教育はそれ自体の苦役による正当化によってのみでなく、物語性による正当化までをも齎してしまう動員装置となることができる。また、目標の恣意性もさることながら、ここにはもう一つの重大な副作用の発生を見て取ることができ、それは試験においてある方向の外れ値を獲得した者のみを教育の内外において優遇・差別することを認めさせることができるという作用である。目標が恣意的であれば試験における外れ値もまた恣意的なものであるのは事実なのだが、外れ値を優遇するということは予め被教育者集団に示唆されており、そこから優遇が実際に適用される時点までには多かれ少なかれ猶予の期間が設定されている。この猶予期間をおくことで、試験においてどの位置に立地したかは彼自身の努力が如何程行われたかに原因を求めさせることができるのであり、結果として試験による後々の差別化の原因を彼の自己責任に押し付けることができるのである。

 次に、被教育者という存在が生産される過程を眺めてみたい。前段で教育をたっぷりと授けられて思い出と充実感に満たされた被教育者たちは、より新しく出現してきた人間たちを自分たちに都合の良い形で社会へ動員しようと努める時、教育者の座に自らを移しにかかる。こうして生まれた教育者たちは、新しい人間たち ――子供たち―― に自分が受けてきた教育と同じ思想によって再構成された ――彼ら自身が受けたものと枝葉末節の要素を除けば殆ど異なりが見つけられないような―― 教育を施そうとする。彼らは、例の神様の元に捕囚される前のことなど覚えてはおらず、教育を新しい被教育者たちに押し付けることに対して何の悪気も持っていないし、それが子供を自分に肖せるためのものであるにも関わらず疑いもしない。「自らに肖る」ことを無意識のうちに良しとした彼らはときに「(自分に) 不肖の息子」などという句によって思考することがあるのかもしれない。
 彼らの教育に対する動機は「社会が被教育的結果によって構成員を差別することを当然としたから」ではなく「社会が多少変わっても・他の社会に移っても、なお被教育的結果はその後の子供の人生を安楽にするのに役立つから」なのであり、この観念は世代を追うごとに段々と先験的なものであるかのように扱われるようになり、それへの懐疑の緒すら消失させていく。そもそもこの動きは、家庭内における教育者の自己肯定欲求単体により生じるものであるというよりは、社会における被教育的成果の用いられ方との、密接で ――そして侵襲的で―― 不可分な相互作用を背景として成立しがちであることを無視するわけにはいかない。家の外の世界では ――一部の家の中において同様の現象が見られる機能不全下のコミュニティもあるだろうが――、被教育的結果において良い外れ値であると烙印を押された人々の意見はより正統なものとして認められがちであり、彼らは彼ら自身被教育的動員について、つまり ――細かい点については不満もあるだろうが―― 全体の根底をなす教育という考え方については、それが自らを承認してくれた巨大で伝統的な構造であるが故に疑いの余地を挟むに至りづらい。故に、子供たちにこれらの教育を押し付けるべきだという前提は疑われることなく、それどころか自己を常に、時間とともに再帰的に大きくなる権威によって強めながら、先験的な前提へとすり替えていく。こうして社会の持つ知 ――教育における内容と、教育自体の善性―― はとある不自然な一領域に偏って存在するようになり、進化の暴走を半永久的に繰り返すことになる。

 ここで、教育が生む社会内順序構造について触れておこう。教育は社会の全ての構成員を動員できるのはこれまで見てきたとおりであるが、同時に被教育者たちの集合の任意の二つの元の間に「優秀」・「拙劣」という関係を決定し、被教育者たちの集団に対して能力の優劣という全順序な構造を導入することになる。この浮遊的に定義された関係は、教育が発明される前であれば存在し得なかったような不自然なものであるにも関わらず、真理であるような顔をしてどこからか社会の中へやってきて人々に抑圧を齎す。この優位性の誇示とその対である抑圧は、既に語り尽くされてきたように、人々の生来の知的能力や体力に対して一方的に制限だけを与える結果となり、偏に非効率と不毛を社会に呼び込むだろう。この様相を踏まえてまで抑圧を社会に導入したいのであるなら、それはひたすら他者を貶めることだけに快感を感じられるような疾患の発露であると言えるのかもしれない。

II. 自らへ動員することによる「知」への昇華

 前節では、教育が如何にして発明され、自己再生産装置としての地位を獲得できたかを見てきた。今度は、ある知識が教育に組み込まれた際に起こる状況を観察していこう。つまり、極めて実践的な事を論じたい。
 今、ある分野の体系が新たに義務教育の中に ――必ず被教育者たちはそれを修めなくてはいけないとされる内容として―― 導入されたとしよう。するとその内容は、国家と、世間からそれなりの権威を付与された専門家 ――例えば研究者、あるいは学者―― の推薦と命令の名を戴き被教育者たちの時間と体力をどっさり動員しながら、学校における正当な科目として現れることになる。よって、現に彼らはその内容を習得することを一度は明示的・倫理的に要請されることになるし、それは既に見てきたように試験という蓋をかぶせることによって更に強化され、その体系を習得した者については単なる達成感と結果の証明書を、その体系の習得を多少なりとも行わなかった者については、少なからぬ罪悪感 ――決してゼロではない「負い目」―― を与えることになる。彼らは自らの意思で習得をしなかったかも知れないし、ただ習得ができなかっただけであるかもしれないが、どちらにしろ彼らは義務の一部を行っていないという潜在的な負い目を追わせられるのであり、換言すれば彼らはそれを実際に行ったかどうかに関わらず「体系を身につけるべきである」という社会的な規則を手続きとして覚え込ませられるのである。即ち、この体系はまるで既存の国語教育における「漢字の習得」と同じような扱いを受けるようになり、その体系は初等教育卒業者が当たり前に持っている知識としていずれ社会に再発見されるようになるが、それが学士や博士を受けた人であれば最早「習得していて当然」のような体系として昇華していくのである。さあ、ここまで来ると後は自明である。新しく教育に組み込まれた体系は、元々それがどれだけ蔑まれた下品な知識や恣意的な知識であったとしても、遅かれ早かれ正当な ――社会的に上層と呼ばれる人々が持っていて当たり前の・持っていなければ育ちや教養水準を疑われて間接的な被害を被るところの―― 教養と化すのである。つまり、周辺化されていたり蔑まれている体系にとって、それを習得していることが肯定されるようにするための王道的方法は、それを社会の基礎と化しているような必須の教育過程に組み入れて多くの人々の時間を搾取して動員してしまうことであると言えるだろう。知は、それを高めるためにそれに跪く人々を必要とし、それに跪いた人々を承認するために、次世代においてさらなる大勢の跪きを強制する。
 私は実践的な話をすると言ったのであるから、最後に近頃の観察を要する実例として一応「プログラミング」を挙げておく。

III. 成人後の被教育者を終身刑として閉じ込める効果を持つ「教育」

 最終節では、とある局所的な社会の被教育者たちが、教育によって明らかに不利な局所性へ落とし込まれる側面を眺めておきたい。ある局所的な社会で一様に施される教育 ――例えば日本社会に生まれて教育機関を上がっていく場合をイメージすると分かりやすい―― は、その局所的な社会で生きていくのに共通に必要とされるような知識体系へ、多かれ少なかれ偏らせて実施されている。最たる例では、自国文化という体系や、自国語という体系に莫大な時間と資源を割いているのが観察される。また、自国民意識の醸成にもあまりに多くの時間が動員されていることを忘れてはならない。これらに対する時間の捻出は、完全にその教育に動員させられてしまった被教育者たちの「持ち出し」によって準備される。さて、これを強制された彼らは自国語の担い手になる。いや、自国語として局所的な言語を設定された場合には「自国語」で思考してきた人たちの集団に強制的に包摂され、他の言語で考える能力を「第二言語」以下にまで落とし込まれてしまう。彼らは、その言語の維持にただ加わるだけではなく、むしろそれを押し付けられるのだ。最初の節で述べた教育の被害は、同一の局所的社会のうちに上下の構造を作ってしまうことであり、それ故に恣意的な構造で人を貶めてその積極性や創造性を奪ってしまうことであったが、こちらは局所的な社会の既存構成員 ――大人―― だけが飯の種としている社会・経済圏という既得権益のプラットフォーム維持のために、被教育者たちがより生きやすかったであろう文化体系への動員という選択肢が他に考えられるにも関わらず、なんと被教育者たち本人にとってあからさまに生きることを不利にされるような教育が授けられてしまうという被害を齎している。さあ、これを既存構成員の側から眺めてみるとどう見えるだろうか。既存の経済圏・言語体系・文化体系に基盤を置き、そこにおける局所的な需要によって食い繋いでいる既存構成員は、この局所的な社会に強く出口を偏らせた教育を新たな構成員へ押し付けることによって、彼らの需要の源となる市場の規模を維持する・あるいは拡大することができるようになるだろう。この教育に動員されて被教育者たちは、他のもっと優勢で自由な言語を第一言語とする機会を後天的に・永久に失うが、結果的にこれが彼らを局所的な社会から永劫出られないようにする柵として働くことになる。つまり、教育によって無意識のうちに局所的な体系のもとへ特化させることは、他人 (子供たち) をある檻から出さないように監禁しておくのにこの上なく効果的な方法ということができるだろう。

 また、局所的な社会への縛り付けという現象は単なる能力の領域に留まらず、好奇心の領域についても散見される現象である。被教育者たちは、とある自然科学の部分・社会科学のそれ・または道徳的な好奇心 ――他人と接する際に推奨される・持つべきとされる感情や動作―― を既存の社会構成員が優勢としているそれらと一致するように押し付けられることになる。世界でもしその局所的な社会のみがとある科学分野に「好奇心を持っている (多くの資源の供出を社会全体で承認し、またそれが倫理的に良いこととなっている)」時、被教育者たちはそれと同じ好奇心を肯定され、それらに対して「知的な」好奇心を持つことを繰り返し教え込まれる。彼らが成人して社会の意思を決定するための位置に移った時に、独自に (局所的に) 定義された好奇心は威力を発揮する。彼らは、彼らの局所的な科学・道徳へ国家全体で資源を配分することを、無意識に倫理に照らした当然の選択であると錯覚しながら肯定し承認するのだ。メインカルチャーたり得たそれらの独自の科学に対して反対する声は容赦なく「知的好奇心と倫理」によって消し尽くされ、尚も「知的な」活動は続いていく。これは、国家全体に対して関わるような公的な場以外でも同じように発生し、各々の小さなコミュニティにおいても、正当な倫理によって幅を効かせたそれらの局所的な科学や道徳は、否定するのを許されなくなっていく。これも既に語り尽くされているように、小さなコミュニティで再現される「再帰的に発明された構造」の予期された効果である。こうして、後天的に意義を付与されたそれらの局所的な体系文化は、それの頂に座る一部の人々に食事を提供し、その裾野にしがみつく人々に「行ってきた努力を承認してくれる順序の構造」とそれに伴う大小の社会的承認を与え、それ以外の聴衆たちには倫理的な人で居続けるという社会的体面を維持させるものとなるが、これらの性質のためだけに国家や個人から莫大な資源が供出されていき、気付くと一体誰がそれに対して一次的な知的好奇心を持っていたかが分からないような、誰にも実は望まれていなかったような巨大な伝統文化として形骸化し、供出を強制させられた人のうちでも特に経済的な余裕がない者を (餓死という形で) 殺していく。彼らは殺される瞬間も、形骸化された恣意的な好奇心のせいで今の自らの苦しみがあるのだとは気付きもせず、ただ常に自らの人生の落ち度であると信じて殺されていく。彼の死に対して名誉の戦死であるとの称号が与えられることは未来永劫決してないであろう。

*1:日本では通常、博士号の取得は二十七歳以降となっていることからこのように記述した。

*2:言うまでもなく、ミシェル・フーコー「監獄の誕生」である。