蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

肯定(一)

 二月十七日の上野は、雪の時期が既に終わってしまっていて、頬が痛いくらいの寒さこそ残っていたが、風雨に吹かれる心配なしに街の色を眺められる天候だった。北上野へ向かう首都高が、そう濃くない陰を国道四号線に落としており、空の色もまた、薄い鉛色をしていた。灰色の古ぼけたビルたちが、ひしめくようにくすんだ道とくすんだ空とに接していて、視界にコントラストを望まない人の目には、一つの調和となって映っていた。
 徹は、博士論文の公聴会を先月に終えてから、ひとときの身体的な休息を楽しんでいた。体に浸透するように染み渡った栄養ドリンクの効果をリセットし、朝と夜が逆転してしまった生活を、現代人の標準的な生活周期へ移そうと、たまに低コントラストの街を歩いているのだった。灰色の壁は徹の網膜にぬるい色を映し出し、瞼を優しく閉じたり開いたりしても何ら注意を喚起しないくらいのもので、それは帝都の奥ゆかしい往年の下町を感覚的に好きだと思う徹にとって、安楽そのものであった。
 四号の大通りから浅草の方へ向かう小さな路地に入ると、スカイツリイと建物の屋根と電線が交差し、得も言われぬ乱雑と出会った。行き交う人はまばらだったが、砂色のコオトを着た背の高い女の人が歩く姿や、灰色のスウツを纏った四十代の男の人が小走りに駆けていく姿が、良くも悪くもその風景に馴染んでいた。一年の内で最も美しい調和の取られた灰色の季節は、今年も過ぎていく。博士号を受けた二十七歳の、この年度末は二度と戻って来ないのだと思うと、近い未来において必ず思い返したくなるだろう風景を、今恰度見ているように思え、通行の人々が数人収まるように通りを撮影しておいた。

 山茶花珈琲店の上野茶寮はいつも数組の男女が入店を待っているが、この日は幸運な事にすぐ中へ入れ、席も六割程度しか埋まっていなかった。ふんわりとしたモケットに座り込みメイルを確認すると、まもなく到着するとの知らせが入っていた。お気に入りのカフェオレを注文し、綾華が入ってくるまでの間、ポケットから小さなメモを取り出してさきほど見てきた事を万年筆で書き留めていた。不思議な匂いがしたので顔を上げると、深緑のカアディガンを纏い極端に細くくびれた人が目に入った。綾華である。
「久しぶりに君に会えて嬉しい。君はいつだって憧れの的だから。」
そう言う徹の言葉に対して、目を細めてテエブルの上に視線を遣り微笑んだ綾華は、コオトを徐ろにかけて椅子に座った。彼女も同じくカフェオレを注文すると、徹とお互いにちらちらと見つめ合い、時には目を下へおろしてはこの甘い緊張を楽しんでいた。恰度綾華はデルタの万年筆に興味を持っていると表明し、二人でそのカラフルな容貌をタブレットに表示させては見入っていた。デルタの濁った橙色は綾華の細くて整った見目とは似つかわしくなくて、そのギャップすら魅力に思えてきたのであった。徹には、この空間の隅々にまで綾華の物質の一部が存在しているようで、綾華と壁を隔てずに繋がっている空間はさも例外なくゆかしいものであるかのように思えてきた。彼はこの日を境に一層上野の街と、極端に細い部類の人を好きになった。

 王子にある一人暮らしの部屋に帰ると徹はすぐに眠った。起きると既に午前の一時を過ぎており、あゝ少し感傷に負けて時間を無駄にしてしまったと思いつつ、安楽椅子に腰をかけ今週から読んでいる理学書の続きに着手し始めた。行間への落書きがそろそろ入らなくなってしまった頃、ふと思いついたように、彼は博士論文を済ませたら新しく読みたいと予め思っていた分野がある事を思い出し、論文検索を漁りだした。一つ面白そうなものを見つけて概要を読んでみたが的外れで、次のものに目を移すと今の興味とそこそこ関連しそうに見えたので結果と総括に目を通した。期待とは違い載っていたのはとても眠たい内容で、集中力が人並みにない彼はまた違う文献をパラパラと見始めてしまった。時刻が午前四時に差し掛かる頃、あゝ四時だと三文役者の台詞のように発し、その日はお終いにすることにした。

***

 金曜日の夜は、空がとても濃い紺色を溜め込んだような夜であった。徹はこの日、北千住で夕食の約束をしていたため東へ向かう千代田線の車内に立っていた。今日一緒に過ごす予定の相手が、自分の中でまだ慣れた存在ではなかったからか、町屋を過ぎた途端に心臓の鼓動が手や胸板に露わに伝搬するようになってきていた。ふと気を抜くと意識が飛んでしまって今夜の予定はキャンセルできるかもしれない、そんな想像を巡らせながら改札を抜けて、待ち合わせのレストラン街に着いた。真っ白で深窓な雰囲気すら漂う栞は既にそこに居て、徹を見つけると急に頬を緩ませて嬉しそうに駆け寄って来た。あゝ私は今日彼女氏に会いに来て本当に良かった、そう思っていると栞も同じような表情を返してくれた。栞のお気に入りの恋人繋ぎをしながら二人はパスタの店に入った。
コントラストのない、陰ばかりの、薄く黒ずんだ、プライドも何もない所へ行ってしまいたい。」
「副都心の綺羅びやかなネオンの色や、サブカルチュアを自称する人たちのための寿命の短い調度品を集めたカフェにはもう飽きてしまった。だからと言って、光沢のあるビルや白色の高層ビルと同じ天を戴きたいとも思わない。」
「香水の匂いも緑の匂いもカビ臭い匂いもいらない。私は何一つ鼻を突いてこない首都高の下のどぶ川のような景色だけを見て暮らしたいんだ。」
そんな事を徹は言い連ねた。栞はそれに軒並み同意するも、上野のような古い洋食屋が似合う風景もそれはそれで素敵だと言い、加えて彼女らしい意見を幾つか加えた。
「綺羅びやかなのは要らないとは思わないけれど、私は下町の風景がより好き。特に深川の風景は一朝一夕に出来上がるものではないと思うから尚更得難いし、私は清澄庭園に骨をうずめても構わないくらいには思っている。」
こう言っている最中の栞の顔もまた、徹にとっては鑑賞するに値するものであった。
 徹は、栞がその歳に似つかわしくないドイツ文学の深い教養を持っていることについて尊敬していた。口を開けば徹の知らない事を優しく教えてくれたが、それでいて容貌は汚れを知らないような十九歳といった具合であり、身体は細く白かった。彼女の話に出てくる話題であれば、本来無批判に何かを信じるといった事がない徹でさえ危うく心酔してしまう恐れがあった。何故ならば、異性でなかったとしてもその存在を肯定してあげられるくらいには、自分の見ている生に対して良い影響を及ぼしてくれる人であったからだ。
 「君と違って私の拠り所はどこにもなく、今このように息を吸っていられるのが何故なのかも私は知らない。私が君に提供できるものは恐らく何も無いのだと思う。学識もなければ得意なこともない、趣味も碌なものが身につかなかった。おまけに目を開けばおかしな視線を振り向け、目は脂肪で厚く囲われている。私の許を離れないでくれとは言わないが、私を拒絶しないで欲しい。」
栞は強くて優しい目を向け、予定調和のようにこのような言葉を承認してくれる。これが初めてではないし、徹の存在に対する栞の承認は二人の間に幾度もの性交実体があったからこそ実世界では少なくとも揺るぎないと言って良い程の裏付けが伴っていたので、徹は安心して自らの本質を繰り返し発掘し、曝け出す事ができていたのだ。
「不幸だね。君も私も不幸なのだと思う。何故今ここに生き長らえてしまっているのだろう。本当に可哀想だよ。」
可哀想、可哀想、と消え入りそうな声で徹は繰り返すと、口角を上げて日頃は決して見せない引き攣った笑顔を醸し始めた。この間ですら栞の目が作る表情は、雰囲気に飲まれそうになっていたが、彼らは次の事へ移りたかったので一旦食事を終わってしまうことにした。二人は夕食を終えると、お互いのこの世における存在が許されているという証拠の授受行為をしようと誰も居ない荒川河川敷の暗闇へ向かった。