蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

文化的な死と、文字的文化から遠いところの人

 下子とは文章から最も遠い人間です。

 はじめ、彼は自らが文章を読めない等とは思ってもいませんでした。幼い頃、一・二行の文であれば、 ――他の日本人がそうであるように―― 幾度となく読む機会があり、また実際に読めていたのだろうと思います。君は読めていないと明示的に指摘された事もなかったのでしょう。今だから分かるのですが、彼は文字を手段に知識を蓄積・共有し合うような界隈で過ごした事がなかったのだと思います。中等学校もそろそろ半ばに差し掛かる十五の頃、たったの一度も文章を読んだことがない人間が、ここに一人完成しました。

 確かに彼は一人で三分と活字やノオトの前に居る事ができなかったのですが、恐らく彼自身もその周囲の大人たちもそれに気付きようがなかったのです。彼自身ですら二十三歳になるまでそれに気付かず、彼の中に溢れ出る「気合」か、または「熱意」という古典的で大衆的な状態量が足りないとしか考えてはいませんでした。予め非文化的であり、文字文化圏に浸った事がない彼も、――そんな彼でも―― 何かを読んで感想したり、分析したりすべきような関門には直面しましたが、ものを読むことを本能的に忌避して無意識のうちに代替手段を取っていた彼は、たいていその場を創作か先験的な ――というのは、実のところ十分に思い上がりであって、疑い得る隙間の多いガバガバな―― 仮定とその演繹した結果を述べて、あたかも多くの文献を読み解いたかのような顔をしていました。恐らく、彼は十五歳にして既に、生きるために仕方なく衒学者であることを強いられていたのでしょう。全く、無教養過ぎて涙が枯れてくるようです。もしも彼自身が楽しんで衒学的な趣味を予め持っていたとしても、ここで環境に適応するために否応なく衒学しなければならなかっただなんて、約束された不幸の始まりの香りがします。

 何一つ文化を知らず、知識の源泉となることもなく、かと言って誰も知らない事を発見する程優れてもいなかった彼は、文字以外についても弱者でした。思うに、文字について弱いという事によって齎されたものではなく、そもそも素質として何にも向いていなかったのでしょう。会話の間に流れる息の途切れ方も、目線や少しの挙措が示唆する暗黙の言葉も、彼は読み取る事ができませんでした。人の顔すら三人と覚えられず、彼らの性質も好悪も何一つとして記憶できなかったのでした。恐らく、その頃は無関心に取り憑かれていたためであり、悲しいことに今も尚無関心の中に居るという事は変わっていないのだと思います。

 衒学と小学生でも操れるような稚拙な思考によって、バラエティを持った華やかな出鱈目を学部入試の答案に書き連ねて理学科に上がった頃には、自らが過去八年間に渡って何も読めず、何も身につけられず、何にも興味を持てていない事に気づきました。いや、実を言えば何も読めていないという事以外 ――つまり何も身につけられず、何にも興味を持てていない事―― はもう長い間自覚して居たのですが、半ば目を細めて諦めた顔で、何にも興味を持たない事こそが大人になるということなのだろうと自らを誤魔化し、漠然と済ませていたのです。

 彼は確か、次のような問いかけをしたのです。

十五歳を越えてしまうと、何にも熱中することはなく、何にするにも偏に作業として淡々と済ませる他なくなるから、小さくて聡明で、知的な子供が羨ましくはないかい。彼らはまだ自分の好きな事を身体的に忘れてはいないのだろうと思う。私はいつまでも十二歳で居たかった。

すると、

私の場合はむしろ幼い頃の好奇心は何も失っていないし、年齢が上がるにつれて知りたい事や実際に行える領域の膨張を喜んでいるよ。むしろ君の言う好奇心の減衰とか、熱中性の欠陥というのは、君固有のものではないか。

と返され彼はハッとしました。「好奇心が消えていき、ただ流れるように、でき得る限り存在しないかのように大人の人は生きてゆくべきで、身体的にもそう成長するように生物は出来ている」という観念にまもなく収斂しようとすらしていた彼には、この答えが異文明との邂逅にすらなったのだと思います。関心がない事について「関心がある」と言い、面白さを感じないものに対して「面白い」と言うのが当然の精神は既に病んでいるのです。もう少し拡げると、三大欲求に対しても、社会的な欲求でも、もっと知的で文化的で玲瓏な森の賢者何某的欲求であっても、吹けば忘れてしまうくらいに弱くしか抱かず、「生活とは家事をするためにあり家事とは生活をするためにある」という観念を、眠たげで何も考え得ない頭に抱いてしまっているのは、精神的な原因あるいは社会的な原因に深い根を持つ疾患であると言っても良いと思います。ここで精神的な原因と言ったのは、乃ち何らかの精神的負荷を生い立ちに受け、一切のものへの好奇心を失ってしまうような場合、一方で社会的な要因とは、大人の男の人はただ奴隷のように生きよという間接的な洗脳等があったような場合を想定しています。これらが原因の全てではないですし、またこれらの場合から得られる結果が一般には無気力ごときに収まるとは考えてはいません。もう一つ、――失念しそうなところでしたが―― 先天的且つ身体的な原因も十分に考えられ、更に考えると彼の場合は畢竟それに当てはまるのではないかとも思ってしまうのです。

 文章が読めないという苦痛は、彼の操ることができる概念とその伝達手段を次第に奪っていきました。次第に、いかなる学識もなく、いかなる知識もなく、何についても説明能力を持たない人間になっていきました。しかし、彼は文章を読もうと必死でした。数学書、理学書、新書、小説、社会学書と、読みたい本と知りたい体系は山のように有り、それは一日に一冊読む人ですら老いるまでには読み了えないだろう程にうず高く積み重なっていました。積んでいただけではなく、毎日昼夜を問わずしきりに、知りた過ぎて喉から手が出る程のその文献たちを読もうとしていました。時には絵本なら・童話なら読めるのではないかと彼は妄想し、取り寄せ必死に読もうとした事まであったのです。けれども、それらの努力が全て何の効力をも与えなかったのは、のちの彼を寸分でも知っている人なら想像に難くないと思います。

 彼は文字によって伝搬される、教養ある市民にありふれた文字的文化を失いました。彼は全ての知識人の友人を失い、何も学ばず、喜ばず、望まず、楽しまないような、年中自室に篭りただ呼吸をするだけの人生を開始しました。驚いた事に、彼は呼吸を喜ばず、眠る事すら喜ばなくなりました。彼のセルフネグレクトは年々度を強めていき、起きている間は表情を作らず口をだらしなく開け、眠っている間は――、いや彼は既に眠れない人間になっていました。自室に篭り数年経った頃、学籍の都合で彼は親の許へ幽閉されました。理学科の学籍はもはや彼にはどうなったのかすら分かりません。その後東京へ左遷されましたが、何らかの研究機関の院生としての学籍が付与されたようです。

 最近の伝えによると、今でも彼はどこかの自室に篭って何やら非文化的な活動に勤しんでいるそうです。彼が時々言っていたのは「文化を持つ人が羨ましい」でしたが、まだ日本語を紡げていた頃の最後に述べていた事は「文化も文明も私の地平線から出ていって欲しい」だったようです。彼のようになる事は決して幸せなことではなく、かといって不幸でもないような香りがします。彼はヒトからそれ以外の動物に戻ったのでしょう。彼は、知識を得る事ができなかった代わりに、文化的な死という安楽死を賜ったのです。