蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

意味の捏造と疎外

 人間が垂直感染してしまった「意味」という認知上の障害について。

I. 意味という習慣

 事物や人間的存在は、その存在自体が予め主体の前に現れ、これに続く形で意義や目的が付与される。この過程は、他者によって目的を予め設定された上で創造された事物に対しても ――意味が生産主であるところの他者から輸入されるか、主体自ら独立に発見するかの別はあるとしても―― やはり意味を後から付与されるという点によって同様に適用できるだろう。意味が付与される作業は最初主体によって無意識のうちに為されようとし、それを仮に免れた場合でも、明示的な社会 (つまり他者) からの圧力により次の瞬間には意味が設定されようとするだろう。後者における意味の付与はしばしば意識的に ――作為的であると主体に自覚された形で―― 行われるが、その際は無自覚である場合に比べて少しは救いようがある。乃ちこの作業は社会対策コストの払い出しの身近な一環として、常に疑いの目を向けられることになる。同時に、これは社会対策として為されているのだから、誰をも納得させられない「浮遊した」意味の付与を起こすことが多く、次第に「コミュニケーションのためのコミュニケーション」となっていくだろう。こうして上辺だけを頻繁に撫でられながら社会対策の材料にされるだけの「意味」は蔓延し、世界のどこかに社会が出来れば即ちその内部を満たす効用を齎してくれる。意味を振りまくことは社会化の典型的な一症状であり、意味のない意味が氾濫したコスモスが社会である。

 さて、何故主体は浮遊した意味に捕囚され、新たに生じる意味への社会対策コストの払い出しを求められるようになってしまったのだろうか。主体 ――それが人間であるとして話を進める―― は、アプリオリな論理の世界から美しく演繹されて突如出現した存在ではなく、生物が長い時代を経て自然選択により性質をとある領域に偏らせ、改変されていった*1結果として現出した有機体である。その脳は、生存競争による自然選択を生き残るために「目的がないものは存在し得ない」・「目的なき概念は学習できない (ラベリングして再現的にその存在を検出できない)」ように暴走していった。人間の脳はそもそも本質的に、目的を恣意的に設定 ――目的には勿論「生存すること」・「生殖すること」が含まれている―― しなければ何一つ算出できないし、何一つ改変できない教師有りの学習器なのである。事物に対して常に意味を付与させようとする (社会における) 脅迫的習慣は、このような人間の認知的特性から、おおよそ接地した妥当性を説明されないまま雰囲気の中で霧のように生じていき、多くの人がその習慣に従うために ――例のごとく―― 目的や意味をあらゆるものに対して付与するという作業が社会の教義 ――あるいは知能性―― という枠の中に包摂されたのではないか。知能の定義がそうであるように、やはり今回も「人間に如何に似ているか」という尺度で観察することの正当性が教義として襲いかかって来た様子を見て取ることができ、人間の人間愛性障害的症状が露呈されるのである。
 また、意味付与症候群の原因はこれに留まらず、「社会内での生存確保」という要請からもまた支柱を与えることができる。主体は生自体の目的付与を強制される傾向 ――これは次節で説明する―― にあり、あらゆるものへの意味の付与はそこから自然に伝搬したものであるとも言うことができる。生自体の目的付与だけではなく、生を既に在る物とした上での「生き方」への目的付与による寄与も無視できない。生き方に目的・意味 (人生観) を与えると、(競争) 社会では行動の結果が或る方面に最適化されたものになりやすく、それは必然的に彼の生存を維持しやすく他者からの承認も得やすくなるという効用を齎す。これを再帰的にまたは繰り返し唱えていくうちに、気付けば人生観の捏造は教義 (倫理) に昇華していくだろう。教義と化した「人生観捏造作業」を否定するのは乃ち、人生の最初期における扶養者 ――例えば親がその一例である―― の否定に繋がり、扶養者から自分への社会的な危害が及ぶ可能性を増大させることになる。目的捏造という文化は、人の ――特に、刹那的には死亡を痛がろうとする身体の―― 生存を人質に取ることで、現代文明における既得権益層たる位置を獲得していったと見ることができる。
 何ら意味がない事物に対して意味と目的を頻繁に ――脅迫的に―― 「発見」してみせる作業の習慣化は、少なくとも現在の先進国においては、「自らの生の目的は何か」という刑罰的に課された設問を通して繰り返し訓練される。目的付与を繰り返し訓練された身体は、ほぼ無意識のうちに事物に目的と意味があると仮定して観測を歪めようとすることに馴化し、事物を肯定せざるを得なくなる。ここでも (馴化という) 主体の生物的特性によって目的と意味が発明されていく過程があるといえよう。

 意味付与という習慣と教義は、単に浮遊した空っぽの ――実は意味のない―― 意味を撒き散らすだけに留まるのだろうか。実は、撒き散らされた意味は簡単には消滅してはくれず、かと言ってこれは恩恵だけを齎すものでもなく、或る重大な感染症として単一栽培下にある文明社会を瞬く間に席巻するだろう。まず、意味とは作られるだけでは済まず、意味が付与された存在には少なからず善性が見出されようとする。意味とはその存在の目的に対する善性であり、その目的に対抗する目的に対しての悪性であるのは言うまでもない。人間社会に存在する任意の作業・様式・過程・苦労*2に目的と意味が ――精一杯の創作センスの動員を伴って―― 発明されようとし、それを作るという浮遊した手続きのためだけに、今にも消滅させるのが望ましい事物に対して繰り返し「肯定」のラベルが貼られ、自浄作用を消してしまう。自浄作用が消えた構造は、必死にこの世界の変化に抵抗をしてくる。既存の事物に対して雰囲気的で生理的な愛好が付与されると、それを動かそうとする変化を生理的嫌悪とともに知覚するようになるし、実際に変化させる段に行き着いたとしても、今度は「変化する」という動き自体に対する生理的愛好 ――気分的な肯定―― が与えられ、変化しないという過程が生理的嫌悪のもとに置かれようとする。そう、全ての事物もその変化も、生理的に肯定・否定されようとするのだ。
 そもそも人間の生自体がそれの「目的」・「肯定」を除去できない ――除去してはいけないという禁止の下に置かれている―― ような、そんな倫理体系の下に沈没させられているので、如何なる文化的意味 ――それが肯定であれ否定であれ、基本的には生自体の目的化と肯定の上に建っている―― も、論理的な是非ではなく生理的な是非を押し付けられるしかないのである。つまり、様々の事象に対する肯定は全て気分的に与えられ、「気分的に何かを肯定する」という作業自体が ――不可触な倫理の下において―― 生優しい上辺のみの言葉で肯定されている。ひとたび不可触な基盤を持ってしまった体系は、理性的な疑いの言葉を無視せざるを得ない、特定の文明依存でしか成り立たないものとなるのである。
 理性による疑いを差し挟むことが永遠に許されない疑似科学下の世界において、(人間の集団としての) 社会が目的ドリヴンの活動をするのは難しいのではない。それは最初から本質的に不可能だったのである。何故ならば、社会の再帰的微細構造として存在する「個人」は、同じく「理性による疑い」を基盤 (生自体) に対して挟めない疑似科学の教徒だからであり、理性による思考を行う能力がないというよりはその思考の許可が与えられていないからである。疑似科学の宗教的な体系のもとで、目的志向の作業ができない社会の住人たちをして目的に従事させるという、有史以来有数の大きさを誇る疎外の不幸 ――無理強い―― が始まった。

II. 最初から疎外された上で生まれてくる「生」

 前節では、任意の事物に対する目的付与を見てきたが、ここではその真髄であり根源である自らの「生」に対する目的付与の作業が如何にして行われるかに絞って詳しく眺めていきたい。
 人は、既存の人間たち ――これは本人から見れば「社会」とも言うことができる―― によって、本人の意向ではなくあくまで既存の人間が持つ目的へ動員するために生まれてくる。こうして他者が持った目的のために ――つまりは存在の開始の時点で既に本質的に疎外されて―― 生まれてくる人間は、なんと生後に生自体の目的と意味を「推測」するように強いられる。目的を作るのでもなく、発見するのでもなく、受け渡されるのでもなく、有りもしないそれを「推測」させられるという何とも共依存的で病的な手続きを既存の社会から推奨される。これはまさに、有りもしない ――あるいは相手の気まぐれで如何ようにも変えられる―― 正解を、相手の顔色を伺いながら推測させられるゲーム*3のようである。
 社会に動員され、利用し尽くされるために出生を計画され、出生後は様々な形をとって生産し続ける事を ――所謂物質的なものづくりに限らず、他者に承認を与えることや、情報の再生産という形をも取り得るが―― 強制され*4、それは生産ができなくなるまで続く。生産ができなくなる時とは、――例外となる人は幾らでも考えられるが―― 標準的には老後を迎える時である。この点で、死と、死に合法的・合倫理的に近づく手続き ――つまり「老い」―― とは社会由来の目的に因る動員 (つまり疎外) からの解放であり、生の中で唯一本人のためにある現象であるかもしれない。人は常に社会のために存在させられ、老いや死によって初めて社会から何かを ――払った分に比べれば非常に小さい見返りを―― 得ることができるのである。念のため付け加えておくと、社会の持つ目的のために利用され尽くす過程には、「自らは子として、親のために、家庭の中で家庭を象徴する家庭の一部品として存在する」という過程も勿論含んでいる。
 もっとも、より大規模の社会単位 ――家庭や小さなコミュニティではなく国家など、あくまで個人をその数量として捉えがちな規模の社会―― の中での個人という側面を見てみると、個々人の幸せは直接の目的としては求められていない ――あくまで治安の維持、経済成長、文化の興隆などを目的として間接的に個々人に対する幸せを求めている―― が、一方で個人が社会のために利益を齎すことは求められている。人の自由意志は、それが治安や経済や文化の維持や興隆に特に寄与しない限りは直接的には必要とされておらず ――一方で否定もされていないが――、社会にとって関係がないことなのだ。喜んで欲しい、貴方は社会から求められて生まれてきたし、社会に存在することを求められているのだ。しかし、姿・形・性格が識別可能で交換不可能な名前で示された個人として求められているのではなく、代替可能で無名であくまで社会の生産に対して動員可能性を持っている存在という側面のみが求められているのだが。
 生に後付けで行われる目的付与は、(生は既にあるものとして論じられるところの) 生き方の意味付けの訓練が繰り返されるのと同様に、いや時間順序としてはむしろそれ以前に何度も人を訓練に曝すことになる。この訓練は、前にも増して一層強く目的と意味捏造の習慣を侵襲的に与える。「私は誰?」という質問が、主体を作った直接の目的を知っているはず ――何故なら彼を製造する過程を実際に担当した作業者であるのだから―― の親や、その上部組織である社会に対してではなく、彼の住んでいる宇宙や彼自身に問いかけられる。製造の作業者が直接説明すれば済むにも関わらず、説明は与えられずに彼は大きなコストを払ってこの無駄な作業をすることを期待されるのだ。

 ここで、人を製造するという行為は何故発生してしまうのかを確認しておこう。つまり、人の製造を実行に移させる既存の人間たちからの要請とは一体どのようなものなのだろうか。まず、実際に人の製造を担当する人々 ――親―― に働く要請から見ていこう。

  1. 家庭構成欲求:「父母が居て、息子と娘が居て――」いつの間にか理想となったこの家庭像は広く流布され、商業広告・公広告により淡いパステルカラーで表象を描かれて、――一部の人にこれは頗る受けが良いようだが―― 理想化を繰り返されてきた。家族構成のこれらの要素を揃えた「温かい」家庭で非文化的で暮らすことに精一杯になれるような、そんな人生の風景に憧れを持たせられた人々は、結果として人を製造しようとする。新造された個体は、この大人の頭の中に商業的に染みこませられた温かさのために、いきなり生の開始を強制される。
  2. 性欲:男性器と女性器を擦り合わせて子種の交換を行うことで、生殖相手が自分を ――他を差し置いても自分を特別扱いして然るべき―― 至上の異性として選んだという事実を象徴させるためだけに性交は繰り返されるが、この手続きによって直接人が製造されるのは説明する必要もないだろう。この要請によって人が製造される時、人はその親同士が異性間に向けた承認欲求の合致のために生を強制させられたことになるが、一般にこれは安易に知覚されがちであり、その点でこの欲求は一周回って美しくて害の少ないものであるようにも思えてくる。
  3. 社会的尊敬欲求:生殖と養育が何か特別な能力を持たなければできないとされる社会に行くと、専ら人の製造は社会におけるステータスの誇示のために行われる側面を呈してくる。つまり、生殖相手の獲得と、人の製造と、養育という三過程はまさに生殖者にとって自分を特徴づけるための宝石や装飾品や肩書に類するものなのである。養育が欲求のうちにセットになっているという点で性欲よりは幾分かは本人のために貢献するが、一方でこの欲求は包み隠されて説明が充分に行われにくいという特性を持っている。その結果、出生してきた新しい人間を「自らの生の目的の探索不可能性」に強く置きがちであり、偏にここまで有害な欲求は他に存在しないのではないかとも疑われる。
  4. 自人生肯定欲求:親が自らが今生きていることの意味を強く信仰し、その信仰内容に多大な「生への肯定」というテーゼを含んでしまっている時、人の製造は「人は生まれてきて有意義に生きるべきだ」という信仰的テーゼの実現とそのデモンストレーションのために行われる。この場合、生殖者である親の知能に些か問題があることが示唆されよう。一方で新造された子供の方に視点を移すと、この強固な宗教に幼い頃から取り囲まれ、幼児洗礼を強制されるという不幸が待ち受けていることも発見できる。
  5. 家計への動員欲求:新しく造られた人が、その親に対して最終的に経済上の利益を齎すと見込まれる時、企業体が新しく労働者を雇い入れるが如く、新しい人をこの世界に導入しようとする力が働く。先進国では ――一般に標準的な大人を作り上げるだけでも大幅な赤字を齎すことが分かっているため―― この動機が薄れるということもあり、先進国における出現率は比較的少なくなるが、発展途上国を見た場合にこの要請がどれだけ顕著であるかは追加の説明を要さない。この要請で造られた生は、親の経済状況により幼児期や学齢期に殺害されたり自殺を強いられることもあるが、むしろ状況を鑑みた臨機応変な生の早期終了を与えてくれるという意味では他の要請よりも親に責任感の小さな欠片を見出すこともできなくはない。
  6. 無意識:そもそも人は考える事が嫌いである ――また、思考コストは社会対策コストの一つでもある―― から、社会から指示された恣意的な文化にはとりあえず従っておく戦略を取る場合が多い。生殖適齢期に入ると人を作っておけとの命令を (明示的に、あるいは逆に不文律という形を持った) 常識という言葉で与えられ、それに動員されるがまま人の製造作業に移る場合がある。このような無意識に造られた生は、考える事があまり得意でない親の下で如何にして思考を獲得すべきであるかは興味の対象になり得るが、ここでは立ち入らない。

 直接人の製造を担当するのは親たちであるが、彼らにその上部組織である社会からの要請がなかったとは言い難い。社会は人の製造を間接的に要請するのである。要請の具体的な例としては生産人口増加による国家の生産力増大という明示的なもの、そして教育により新個体を国家へ動員することによる祭祀の継続とナショナリズムの継承という暗黙的なものが挙げられる。教育がそもそもの祭祀とナショナリズムの継承 ――既存社会構成員のための文化的・経済的な市場維持―― を目的の一つに持っているのは過去に述べている*5通りである。ここに明るみに出したように、人の製造は神聖であったり探究価値のある深い目的によってではなく、上記の個人・社会の要請により行われたものであって、その点でも (これらの実際の要請を意図的に無視した) 生の意味の探究はあまりに無駄な作業であると言えよう。

 ここまで、人の製造が実際上どのような理由で発生するかを俯瞰した。次に、生の目的は何故後から「発明」されようとしてしまうのかを見ていく。人が生の意味・目的を発明して内面化することは、親が既に行ってしまった生殖を事後から肯定するという効用を持っている。そもそも親と子供は共依存の状態にあり、親は自身の生殖を否定するという選択肢を ――あたかもそこに選択の自由があるような顔をしていながらも―― 持ち併せない。そのため、子が自らの生を肯定することは親への忖度として義務的に行われ、子は忖度の結果として肯定したにも関わらず、親にしてみれば肯定はあたかも子のためのものであるかのような錯覚を抱くのである。
 また、子が生の目的を持つことは、親の家庭構成欲求を始めとした親の脳内の物語を満たしていく。ここで子は自らの生の目的を虚ろにした場合親の物語と齟齬をきたすため、必然的に家庭内で被扶養者の立場でありながら異教徒・異邦人の身分をほしいままにするだろうが、果たして現実的に子は家庭内での異教徒になる権利を与えられているのだろうか。もし名目上それが許されていたとしても、実際にはこの点にも虚ろな「選択の自由」があるのみということに注意したい。こうして、自立できない・そもそも自立を文化的に認められていない新たな人間個体は、生まれる前から多くの共依存的「選択の自由」の虚飾の中に配置されることが確定しているのである。

 選択の自由が剥奪され親を盲信するしかないという、強度で絶対的な (如何なる契約も成立し得ない) 上下関係の指し示す神道的世界 ――家庭―― の下へ目掛けて射出される子という存在は、前段で見てきたとおり本質的に不幸なものである。この上下関係の後ろ盾となって根を張っている扶養という関係は、実は否定され得ないものである。というのは、被扶養・被教育を経験していない生は無条件に見下され、場合によっては無意識のうちに他者から人間格を付与されていないという状況に置かれる。そのような生は、「競争社会で生き残るために必要な能力を持っていない」という名目だけによって非人間となるのではない。むしろ「知能が低すぎて ――または下品で―― 人間に見えない」というあまりに被教育者バイアスに支配された社会構成員の直感によって人間と見られなくなるのである。こうして扶養を経ない自然状態の生は拒否され嫌悪されるため、一定期間の扶養と教育は最早 (家庭外の) 社会から必須視され、結果的に家庭内の上下関係を支持し正当化するのである。
 小さい絶対的な上下関係空間 ――家庭―― を経て育った大人は、生殖適齢期になった際に (まだ生を受けていない新たな) 子が同じような絶対的で理不尽な服従関係下に置かれることを承知した上でまた子供を作り続ける。この点で、人は誰かにとっての絶対的な神様になりたいのではないかとすら疑うことができる。神様を否定しながらも神様を大喜びで自らや集団のうちに導入し、自らが神様になれる機会が到来すれば決して見逃さない。人は他者にされたことの仕返しを、また別の他者に向かって際限なく行いたいという本能を持っているのではないか。或る人が自分よりも本質的に上位にあることを ――つまり対等性の欠如―― を認める人も、「人にされた事を誰かに転嫁することで差し引きゼロの状態を作って良い」という対等性だけは享受しようと努めるのだ。畢竟、人は本質的に共依存を作り出すことを愛好しているのであり、その愛好精神は共依存的関わりを社会全体に押し広めて間家庭的にも肯定するのだろう。嗚呼、なんという人と社会全体との美しき相互作用なのであろうか。

 最後に、生への意味付与を強制された人々が生涯を主題化していく様子を観察して終わろう。あまりにも繰り返し生の意味・目的の発明を強制された結果、生涯の辿った経路や生涯の副作用 ――名誉―― に物語的な意味を見出さざるを得なくなる。つまり、生の意味を噛み締めて行われたこの生涯は確かに意味があって「素晴らしいもの」であったのだと納得しなくてはいけなくなるだろう。この新しい脅迫的な意味の「発見」は明らかに社会対策コストの一つと言えることは疑いの余地がない。
 ここで新たに生まれてくるのが、辿ってきた生涯のありのまま・現在の自分が置かれた境遇と、生後に後付けで設定された「自らの人生の辿るべきとされる」狭い範囲の間に開いた差を慰め、同時にこれから生の目的を設定しようとする人に向けて「意味のショーケース」を提供するための「宗教」という構造体である。宗教は、その範疇に良い意味と悪い意味にそれぞれ対応する「生涯の型」(人生のロールモデル) を設定し、善性を持つ意味へ近づくための、万人を吊り下げることができる体系化された半順序の構造と、善性から最も遠い所に居る者に対する何かしらの改善策 ――それは救済や慰めに留まる場合もあるが―― を演繹的に述べ始める。こうして、人は宗教という意味の集合を積極的に自らの共同体内に引き入れ、喜んで多大なコストを払うことをお互いに強制・監視し始めたのである。不幸なことに、意味を世代ごとに・再帰的に深く刻んでいく宗教という構造は極めて中毒性が高く、時代を下るごとに次から次へと再帰的な細かい意味を発生させていくことになるため、一度始めるとそこからの離脱を困難にする麻薬として個人や共同体を侵食していく。意味の刺青を肌の奥深くまで刻んだ宣教師たちにとって、麻薬の新たな拡散 ――つまり宣教―― が尚更彼ら自身のエクスタシーを生む甘美な麻薬であるのは間違いない。
 宗教もまたいつしかその不安定で浮遊した構造の中で支配的な位置を占める層の人々のために奉仕する機構へと変わっていくが、これは恐らく読者の想像している通りである。充分に広がって巨大化し、空間的にも大いに上下を隔絶するようになった宗教は、その末端部分や世界の末期において、予め正しいとして主題化された生涯の話を何度も聞かせ、一方で社会標準倫理と化したその宗教体系の中で貶められた辺境的多数の人々は、前者の主題として輝かしく提示されたものを輝かせるための燃料として、どこまでも疎外されるばかりの姿で非主題化され尽くした人生を送ることを、社会から ――巨大化した宗教から―― 要請されるようになるだろう。こうして疎外された賤民たちは、生の意味も目的も、そして実際の生涯をも犠牲にして「倫理に対して正しく」他者への貢ぎ物を送ることに専念させられるのである。彼らのような存在は、自身の卑しさによって社会の他者にイデオロギーを確立させたり身分的承認を与えるという形で、社会への利息を払わされる。彼らのような存在を発明し実際に動員した使用者たちとしては、これ以上の大成功はないであろう。

 既存の社会の意思によって社会の利益のために生は作られ、社会を利するために生 ――特に身体―― を人質にされて、社会という観客兼受益者のために ――苦しみの演技を見せる事自体が喜ばれるような―― 苦しむ役を振る舞わされる。任意の人について言えるのだが、彼が生まれて来ないだけでも世界から不幸せの総量を激減させることができるだろう。人々を見ていると常に感じるのだが、人を作らないでいることや、何千人・何百万人という人々を、生を受ける前に予め減らしておいてあげることは、この世界でも類稀な「副作用のない」社会福祉である事は明らかであるだろう。

*1:「進化」という言葉で指し示されることがあるが、進化という言葉はそれ自体が意味にベタベタと蒸着されたものであるので、ここでは忌避しておく。

*2:例えば、「経歴」という形で文書に現れやすい。

*3:「何で私が怒ってるか分かる?」という定型文で有名な、人格破綻者たちの人気を集めてやまないゲーム。

*4:社会対策コストは副作用なのではなく、社会対策コストを払うために生は作られるのである。

*5:教育という装置の発明 - 蘆花・下子の文書置き場