蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

中心化された限定コードの世界

 社会は恣意的に分化させられてきた。

I. 緻密コードの天下り的転倒

 かつてバーンステインは階層集団に対して独自の言語コードの存在を仮定し、更にその副作用として職業の分化を招くことを示した。乃ち、社会的下層に位置する集団は、事物や主張を発言者の主観に依拠した形で述べた文を発することが多く、それは同時に発言者の地位の情報を副作用入力として与えることを前提に構成されがちであり、一方で社会的上層に位置する集団は事物や主張を発言者から少し離れた視座による客観的な形で述べた文を発することが多く、同時に比較的多量の語彙を動員しがちであるという、既に良く知られた階層間におけるパロール的差異の説明である。彼によって、前者は限定コード (Restricted Code)、後者は緻密コード (Elaborated code) と名付けられた。全国民を対象にした教育機関がある場合、そこでは通常後者によって教育は行われるために、幼い頃から緻密コードによる情報伝達を習得してくる家庭の子供 (より上層家庭出身の子供) が有利になり、階層の再生産に繋がるということは、良く知られた事項であり改めて説明する必要もないだろう。この記事はそんな当たり前の事を主張するためのものではない。

 さて、この枠組みの記述は、第一にはイギリスの教育や階層の現状を説明すべく組み立てられたものだ。それでは、日本で話されている言葉について言語コードはどのように適用されているだろうか。しばしば、日本語の中でも、知識人や富裕層によって主に取り扱われる日常会話のコードは「発言者から少し離れた視座による客観的*1な形で述べられがち」で、対する労働者によって取り扱われるコードは「命令的であったり、情報が制限されがち」と主張され、あたかもバーンステインがイギリスの階級間において記述した言語コードと同型の存在を見出し、その適用成功例であると目されることがある。しかし、そもそも日本人のやり取りに使われるコードは、社会階層の上下という軸に対して単調に上がる・下がるような客観-主観性、示唆-命令的の相関的性質が見られたというのは疑っておかなければならない。考えてみて欲しい、日本語においては発言者が主張する際に、聞き手は常に前者の心のうちを想像することを強制され、発言者が皆まで言わずとも発言者の主張を自らの中で先回りして構成し、発言者が核心を言わなくて良い対話を誂えてあげることを要請する。逆に、発言者はその対話の場に新規性のある情報を明示的に多量流し込んで、大きな揺らぎを作ることはコードの中で忌避され、可能ならば核心まで明示せずに済ませることを強制されているのだ。そして、この様式は日本において「下賤な」・「教育を受けていない」とされる人々に当てはめて想起されるものではなく、他ならぬ「上品な」・「高貴な」・「教養豊かな」とされる人々の表象にくくりつけられ、同時にこの対話の様式は上流と呼ばれた人々がこぞって身につけようとした ――歴史的な重みまで引っ提げてきた「正統」な―― コードだったのである。その意味で、次の二つの内容は確実に指摘おかなければならない:(一) 欧州とアメリカ合衆国で用いられるいずれの言語コードよりも、日本人における全てのコードは「限定」の傾向にあること、(二) もしも上層の「上品な」人々が持っていたコードと、下層の「下賤な」人々が持っていたコードが違いが発見された場合において、上層側が「緻密」であるとされたのは、言明の主張内容が客観的で具体的だったからではなく、上層で話される内容が「恐らく緻密である」とする天下り的な*2定義によるものであること。どのコードが緻密で、どのコードが限定かを決める正解データは、その階層の所得によるものとなっている。

 このような転倒は何故起こったのだろうか。まず上記は、限定コードと位置づけられた人々がそのうちで新たに限定コードと緻密コードの別を入れ子のように作り出し、新たな見下しの対象を発明したという結果へ帰着したことを指摘しておく。少なくとも初等教育を卒業した先進国の市民*3がこれを行い、受容してしまったというのは一見信じられないが、それでも学位だけは授与されてしまうものだから、後は自身及び周囲に対する理論の反証可能性を確保するかどうかという問題になってくる。自らの無知を信じられなければ、それは心のうちにある予定された恣意的な結論の押し付けになっていく場合が多い。
 また、もう少し視点を変えると、バーンステインの記述したモデルが当てはめられたのはイギリスであるが、これを輸入するにあたり、イギリスの階層上下を日本の階層のアナロジーとして ――具体的な生活様式の表象などを衣として分厚く纏わせながら―― 再確認し、結果として日本の知識人はイギリスにおける支配層へ自らを当てはめることができることから、これは潜在的な欧化欲求 ――特に英国貴族という身分への憧れ―― により進んだことなのではないかとも疑うことができる。このような経緯から、入れ子式の緻密コード定義というマウンティングは創始された。

II. 限定コード下における科学のコスプレ

 次に、実学の方へ目を向けてみよう。とは言っても、実学を知らない人のために説明をしておきたい。知的好奇心と、宇宙に対する知識集積自体を目的にした基礎科学としての理学や人文学に対し、この世には直接 (長くとも二十年や五十年以内という極めて短期間の間に) 社会で応用する・適用するための活動が学府 (Academia) の中に場所を借りて行われて ――この事実そのものに対して吃驚する人が居ても全く不自然なこととは言えない―― おり、一般にこれは分野によって異なるが、「法学」「医学」「工学」などのラベルを受け取って「実学」という留保付きではあるが学問として認められている。故にここでは、これらの分野が科学 (自然科学・社会科学) に含まれるものという前提のもと議論を進めることにする。

 科学は、一般に事物とその範囲となる概念を定め、知りたい事柄を決め、探究過程が常に妥当なもの・再現可能であるもの・反証可能であるものになるように注意を払って行われ、逆にこれらに忠実に基づいて得られた結果のみが、悦ばしき科学的知識として集積されていく。この過程においては、誰が誰と一緒に探究しようとも、どこで探究しようとも不変であるような知識のみが成果として提出されるものであるため、結果をもたらす入力 (環境を含む) は常に一意 ――必ずしも一価であるとは限らないが―― に定められなければならない。しかし、実学の遂行の場面ではしばしば (一) 社会的参照、(二) 探究を要請した政治的思惑、(三) 時間不足による投げやり、(四) 知能欠如による誤謬、が行われ、知識体系を根底から無価値にしてしまうことがある。
 (一) 社会的参照:ある地位を持った人間の発表した説を、殆ど読まず、検証せずに正しいこととして受け入れ、それを前提に自らの知識体系を構築すること。これが自分に極めて近しい人の説や言論に対して情けを以て行われる場合は「忖度」とも言う。
 (二) 探究を要請した政治的思惑:事象を説明するための候補としてモデルが複数ある場合に、ある一方のモデルがより誤差なく説明できた方が、後々それを応用する際に交渉的手間をかけなくて良い場合などにおいて、何を結果とするかが観察や検討の前から既に予定されていること。
 (三) 時間不足による投げやり:実社会への応用が前提となっている研究はしばしばその予算・資源・期間に、基礎科学では考えられないような制限が付されていることがある。そもそも、人間の純粋な知的好奇心の対象となり得ないので、必然的に誰か他者のための研究とならざるを得ず、このような制限が本質的に付き纏う。あまりに非現実的な制限下において遂行される探究は、一つの事例によって百の事例の背後に位置するだろう原理を考えることになりがちで、これは最早探究ではなく予言に等しい。しかし予言結果があたかも探究結果であるような顔をしている場合が少なくない。
 (四) 知能欠如による誤謬実学においては、乗っている体系がそもそも接地しているとは限らず、それ故に個人の能力的評価が接地された体系に対する知識や技法と無関係に行われることがある。これを繰り返しているうちに、自らが研究遂行について高い能力を持っているか・研究遂行に適していないかは判断できないものになっていく。すると、正常な初等教育機関を卒業できる能力がある人から見て明らかに自己の能力を過信した、遂行者個人崇拝的な作業へ陥っていくのを防ぐことはできない。この時、研究遂行ができる程度の知能を有していない場合においてもそれが隠され続ける。

 彼らの中でも特に極端なサンプルにおいてのみ観測される奇妙な点として、無価値で何の情報も持たない体系の上で更に不確実な観測を行い、無価値な体系を、学術から離れた単なる文字列の形を取る称号としての「学位」や「論文投稿実績」というハードコピーへ変換してしまうことだ。上記に挙げた四つの非科学的手続きがなされる時、緻密コードで伝達されることを当たり前としていた科学の体系の中に限定コードだらけの伝達と部分的体系が発生する。いや、正確に言えば限定コードにより行われた伝達と、それにより積まれた体系は科学と呼ぶことはできず、科学のコスプレということができる。もしポパーの言うような、反証可能性を持つものとしての科学を信用していたいなら、コスプレを見抜く嗅覚なしにはいられないだろう。

III. 侮蔑用仮想対象の発明

 前述の、入れ子式緻密・限定コードを導入するという手続きは、言語コードの分類で初めて出現したものではない。例えば、何かの身分構造を全体に導入すれば、その小分類の中で全体的身分構造を模倣した同型の身分構造が作られるし、身分構造に限らない順序構造を持ってきたところで、出生前から遺伝的に有している社会固有の形質が発現するかのごとく、毎度自発的に同型の順序構造を発明する。この点で、逃げた人々からは常に五十歩と百歩の間の差異を殊更に測りたいという熱意と悪趣味を見て取ることが可能となっており、もしこの再帰的発明現象について観測したい人が居るならば、再現性の点で観測機会は事欠かないだろう。
 再帰的な順序構造作りは、社会を構成する元を使い尽くしてしまい、やがて空乏層にまで面した時、仮想的な元を置いて尚も続けられる。仮想的な元は直接触れられる必要はないが、媒体に記述されて間接的に存在を表示される必要がある。むしろ直接触れなくて良いのは、穢れの概念を発明しかねない人々にとっては好都合であったのかもしれないが。こうして、彼らは見えない人・居もしない大衆を仮定して永久に蔑ろにできる仕組みを発明するのであり、人々は思索すれば即ち仮想敵の居る理想郷を簡単に創ってしまえるのだ。
 言語コードの話でも同様のことが言え、限定コードを持った人々という仮想敵はいつしか無限に作られることが可能になったし、言語コードからの様相においても、緻密・限定コードが個々人の中で内面化または自作され、それを再帰的に結びつけた連関が社会を上から吊り下げるという悪夢のようなフラクタルが今まさにできようとしている。やはり、人が啓蒙と言ったり近代化を構想するのは約一万年程時期尚早と言えそうだ。

*1:あくまで「間主観的」

*2:副作用による非妥当な

*3:しかも彼らは一応学位を持っている