蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

アイデンティティによる疎外

0. 問題

 アイデンティティとは必須だったのだろうか。

1. アイデンティティ・ドリヴン

 冒頭の一文のみでは問題の射程を制限することが充分ではないため、換言しておく。人間的な主体 (以降「主体」と呼ぶ) は自身が社会 ――あるいは局所的なコミュニティ―― においてどのように見られ・尊敬され・恐れられ・親しみを持たれるかに対して、多少なりとも意識を向けて日常を生きている。この意味で、「全ての主体によってアイデンティティは生きられている」と言おう。以下では、アイデンティティが既に主体にとって獲得を強制された身体の延長であることを見ていき、更に「強制されること」は必ず満たされなければならない要請であったのかを検討の対象とする。

 まず、アイデンティティという言葉を持って指し示したい範囲とその所産を眺めていく。例えば人間が他者を前にした時には、とろんと眠りそうな力の入らない目でいる事をやめて、視点については定まらない空中を浮遊した状態からどこか一点を明瞭に見つめるように変え、口許についても、だらしなく開いていた口を閉じて代わりに鼻で呼吸を継続するだろう。そして、自分が直面している人々が自分を知っているかどうかに関わらず、或いはほんの一秒にも満たない一瞬の遭遇なのか継続的な関係があるかに関わらず、「他者に見られる」ことを前提とした有機体に一瞬のうちに変わろうとする。この時、人間という枠に最低限嵌ろうとする無意識下の身体的手続きは、既に主体がアイデンティティを持っていることが前提となっている。むしろ逆に、こうして社会へ自分を曝すにあたり根源的に作動してくる手続きの駆動元を包含した存在としてアイデンティティを置こう。更に、自分が (1 日以上、それなりにまとまった期間のような) 継続的な時間長の中で知覚されているようなコミュニティに場を移すと、いよいよアイデンティティ由来の手続きが多く観察されることになる。彼が着ている衣服の、――彼は大してお洒落に気を使っている訳ではないにもかかわらず―― 乳児用のサイズの服を着て他人と相対することはできないし、指の動きにしても小指を立てたり人差し指を本能に任せて揺らしながら他人に向かい合うことは手続き上抑制されている。また、彼の発する声にしても、それが鼻にかかった声で・幼児のような不明瞭な声で・あるいは声変わりを無視したような高い不快なだみ声で「声帯的自然の状態のもとに」響く事は抑制されており、コミュニティでは専ら「他人に聞かせるために形作られた」声質によるパロールのみが彼から他者へ・他者から彼へ飛ぶことになる。身体動作の中に現れるアイデンティティの所産を書き表せば全くキリがないが、それは他にも「歩く際の足を前に出す形状」・「足を下ろす際の形状」・「立っている時の重心の置き方」・「横を振り向く時の顔の角速度」・「視線のホームポジション」等、隅々にまで存在することは明らかだ。そして、既に主題としては万人に語り尽くされてきたとおり、これらは全く恣意的な文化の賜物であると言えよう。

 次に、ここでアイデンティティの所産である範囲を、彼と他者の間を結ぶ線分上の、より他者の側へ近づいたものにまで広げておきたい。一般に想像されるところの物理的で単純な身体が作る一次的な手続きよりも少し高次の側 (外側) を考えた時に最初に浮かび上がってくるのは、彼が彼自身に対して規定する「彼は他の人と違い ◯◯ をすることができる。」あるいは「彼は他の人と違い ◯◯ を知っている・理解している。」という観念だ。乃ち、彼は彼自身と他者との化学物質としての異なり、または空間座標上の異なりとは別に、彼が社会において彼自身を特徴づけるものを意識しようとしており、またそれを知る事を自己理解である・自己と他者を差別化できることであるという観念を意識せずに持っている。これは、何かを行う事ができるという「能力上発見された」差異や、何かを知っているという「知識上発見された」差異に留まらず、容姿が大きく他者よりも或る特定の方向に偏っている・意図的に偏らせているなどの「容姿上発見された」差異、何らかの事物や他者を直接または間接的に彼の意思により動員することができると「存在動員的に発見された」差異など、無限に掃き集める事が可能であるのは詳しく説明を待たない。元の文脈に戻ると、これらは元々の差異が彼自身によって発見されたというものである以上に、彼のアイデンティティによって意図的に、差異付けられたものである場合が多い。つまり、アイデンティティによって差異は作られようとし、アイデンティティは時間・他者やその他の資源を動員しにかかる。その結果強化された差異をアイデンティティは自身の一部として包摂し、消化する。言わば、アイデンティティの半永久的な自己増殖活動を見ることができる。

 彼がもしも意識的に差異を強化しようとしない場合も、アイデンティティによる彼の資源の動員からは逃れられない。何かの仕事をしているならば、彼は彼自身に託されたものをやり遂げようとするだろうが、これも彼が信用を得たいと条件反射的に考えてしまう所のアイデンティティ由来の動員と言える。それどころか、明示的な何かをこなさないとしても、職場やコミュニティに出てきてしまうという事自体により既に自らのアイデンティティを撫でて、それに媚びようと彼自身の時間や体力を動員している。心理学者は人間から遠い生物種になっていくにつれて、「自分」という存在自体を対象として思考することを経験しないと言ったが、このように自分自身を対象として思考する時に対象化された「自分自身」をアイデンティティと言うことができる。人間はアイデンティティに駆動させられてしまった。
 ここまでは単なる観測事実の確認であった。それでは本論に移ろう。

2. 動員の呪縛とアイデンティティによる疎外

 人間が自分自身を対象として考えるところのアイデンティティを獲得したことによる効果は恐らく大きく、それによって主体は自らを飾る事が可能になったし、自己についてなりたい姿を想像し、実際それに向けて何らかの資源を動員する事ができるようになった。ただ、私ははっきりと指摘しておきたいのだが、アイデンティティを獲得したことにより、人間はその能力を自由に用い、操れるようになったのではなく、専らアイデンティティを固めることを強制され始めたのではないか。アイデンティティを固める、つまり人間として生理的嫌悪を抱かれないような「節度」に則った挙措や動作をする事を強制され、その強制を拒否すれば白痴として扱われて自力では糊口をしのぐどころか、生殖すら不可能になってしまった。人間は生活を維持するにあたり、あまりに多くのアイデンティティ依存動作を期待されており、そこからの逸脱はまず他者に「気持ち悪い」との印象を与え、人間格の没収を引き起こすだろう。
 更に、アイデンティティを固める事を強制されている事に加え、差異としてのアイデンティティを常に追求する事を、社会から強いられている。社会の中で生存を維持するには、上記に挙げたような社会構成員としての挙措や話し方といったものだけではなく、そもそも「他の人より良く思われたい」や「何かの能力を身に着けたい」だとか「何かが欲しい」といった要請を持つことをほぼ強制されていると言って良い。特に生活資源の取得においてこれは顕著であり、通常「この仕事に興味はなく、特に興味を持ちたいとも思わない。」と言った状況はコードの中で制限される傾向にあり、これの意味する所として、人間である以上差異を求める要請を持って動くことを暗に求めていると言えよう。自らの対外的表象を考え始めることは、その差異を楽しむために稼働され始めたのだろうか、あるいは他者との関わりの中で社会的存在としての生をこれ以上脅かさないように仕方なく獲得された形質なのだろうか。どちらにしろ社会では既にこれを志向しなければ生存を許されなくなってしまった。

 話は主体の中で様々な動員を起こすだけでは済まされない。アイデンティティを自らが求め、他者が自らと同様にアイデンティティを求めるだろうという怪しい間主観的なコードは現代の神となって無条件下の存在の善性を要求するようになった。この状態は決して誇張ではない。他者の持つ差異一つ一つが構造的根拠を持たない善性要求を放射するようになり、それを互いに否定せずに放置していたために、浮遊した恣意的な善性の森を作り出してしまった。善性の森は、その木々に対立する他の木々に悪性を押し付ける。こうして、個人の持つ差異に対しての善性付与はいつしかそれを維持するコミュニティや構造自身への肯定となって降臨してしまった。いつまでも否定することを許されないコミュニティの中で、反証可能性を失った化け物は、ついにコミュニティの外へ害悪を撒き散らしながら内部のためのマスターベーションを加速させてきた。

3. 志向の一方的な規定

 一方で、善性の付与とは別にアイデンティティが人間の知性に対して毎度押し付けてくる抑圧に触れないわけにはいかない。例えば、人間が生物として持つ固有の好奇心ゆえに、何かの思惟を行ったり、知識の体系を吸収しようとする時、そこに社会が存在し、アイデンティティ保有を強制されている場合、それぞれの構成員に知識体系に対する親和の度合いが押し付けられる。その知識体系に対して親和の度合いが低いという表象を押し付けられると、より親和の度合いが高いとされる構成員との間に上下の順序が発生し、体系習得を似つかわしくないものとして負のイメージを付与されたり、明示的な阻まれが発生することすらある。つまり、何かに対して不得手な主体は、それについて得手な主体との間に好ましくない上下関係を押し付けられてしまう。これによりどれだけ多くの知的活動が阻止され、無下にされてきたのかは想像に難くない。社会の中に位置づけられたアイデンティティが、人間の知的行動に大きな制限を施し、発言に重たい社会対策コストを押し付け、結果として知性や創造性 ――もっと身近な例では判断力―― を押し潰してきたのはないか。興味や適性は社会によって押し付けられる場合は往々にして存在したが、人間はこれを無視してきたのではないか。

 ここまで見てきたように、アイデンティティを持ち、また他者のアイデンティティを要求することは新たな偽自由の導入であると言える。にも関わらず、アイデンティティという仕組みの解体は志向されることがない。あまりにも当然に社会参加を強いられてきたために習得した社会参加者バイアスが人間を包み込んできたのか。あるいは、人の肯定を局所的においてのみ一切取りやめてしまうのは、そのもたらす周辺への齟齬が破壊的すぎるためであるのかは判断し得ないが、アイデンティティを仮定することは全く廃止される兆候すら見せない。それどころか、廃止の発明を拒否されているようにも思えないだろうか。

4. 経験されない「非社会」的近代

 アイデンティティの仮定を失くし得ないなら、そもそも仮定を要請している存在の方へ視点を変えよう。要請しているのは、人間同士が極めて頻繁に出会ってしまうこと自体であり、換言すれば出生から没するまでに ――驚くべきことに―― 五人や十人を遥かに超える他者と出くわしてしまうということ自体であろう。加えてもう少しだけ換言したい。人と人がそもそも時空間的に近接した所に存在してしまう・また何らかの経路で情報を交換し相互作用をできてしまうことに原因がある。つまり「社会が発生してしまった」ことが原因と考えられる。こうして、アイデンティティ仮定の要請を見つけることは、社会の発見を共起させる。
 近代的な社会は幾度と再発見され、言及されてきた。大きな社会と小さな社会がそれぞれ生まれ、互いに性質を異にすることも発見されてきた。社会の規範が如何にして恣意的に定まるかも検討されてきたし、常識が構成員の社会化を引き起こし、内面化の地獄にひきずり下ろす事も、社会の発見という話題で常に言及されてきた。だが、全ての社会が解体された状態は、現在においては最早不可能ではないにも関わらず言及されることがない。何故不可能ではないかと言えば、充分な自動化の技術と極めて小さな管理のみを行う司令塔のみが存すればそれは可能になるだろうし、これらの技術的基盤の構築は既に大した難問ではないからだ。それにも関わらず、発見された全ての社会の除去は行われる気配がない。

 社会構造 ――それが如何なる形をしたものであれ―― が存在してしまうこと・解体され得ぬ社会が人間によって直面されていること、これらの話題の標的である「社会」への信仰は如何にして棄捨されるのだろう。あるいは、本質的に棄捨され得ぬもの固有の何かなのか。社会参加バイアスが人間を解放するような新近代は、果たして人類によって経験されるのか。自動化の進展に付随してこれらの命題が明るみに出るのは、そう遠くないと感じている。