蘆花・下子の文書置き場

言葉を通じた知の獲得は、決して起こり得ないだろう。

淡い明瞭

 乳白色のタイルが敷き詰められた首都のごく普通の白い壁にあふれた街路では、路面を淡い影が今朝も行き交っている。コメット色をした照明柱は、薄っすらとして透き通った太陽を受けて脇に微かな一筋の暗がりを作っていた。この付近は下品な街の匂いもしない一方で、緑の匂いを押し付けてくることもなく、路面を渡る影は十分に豊富であるのにそこから発される芳香も強くはない。きっと、芳香に頼る必要がない人たちのための街なのだ。

 彼はタイルの上を静かに歩き、やがて彼の仕事に使う居室が入っている砂壁に覆われた建物の入り口に辿り着いた。建物は鋭角を持った二等辺三角の赤い屋根が乗っかった真白の三階建てだった。避暑地の一軒家のような顔を持つのは、この界隈では他に美容室や雑貨店かレンタルギャラリー等のみで、周囲は一面銀色に覆われ尖った高層ビルディングばかりである。木造の階段を踏みしめながら二階に上がり、ランプで照らされた白い漆喰の壁が広がる廊下を進むと、ほどなくして居室に辿り着いた。扉を押して部屋に入ると、十台余の執務机が点在する明るい空間が広がった。彼は自分の机に辿り着くと、既に座っている四人のそれぞれと目を合わせながら軽く会釈をし、鞄から現代式のペンと無地のノオトと A4 大のアルミニウムで造られた携帯型計算機を取り出して机の左端から並べていった。トンビコオトを洋服掛けに吊るし、目を下に遣りながらそっと彼は椅子に腰を下ろした。

 彼はちょうど今「都市素」と人口の相互作用について考えていた。
 何らかの人を惹き付ける、または人が何らかの理由で必要とする事物を、大きさを持たない点として地図上に想定する。地図上のどこか一点に想定するので、その座標には勿論意味が込められており、定量的な計算に利用可能であるような形式で位置が記述されている。そして、一方で人々の最も恒常的な出発地点をも問題にする。それを便宜的に彼は「家」と名付け、同じ平面上のどこか一点として定義していた。これらの枠組みを使って彼が取り組み、関心を持っていたのは、人を惹き付ける点にある量「都市素」と人口の相互作用を極めて短い時間幅で記述するための微分方程式を書き下す事だった。何故そのような式を得たかったかと言えば、人口の十分に多い任意の都市圏に内包される都市素と人口の遷移を知ることで、近い未来の交通量を予言したいからだった。
 但し、この課題を扱う上で彼は人の欲求が向いている具体的な対象や、動機については何も仮定せず、同時に説明のための寄与として一切採用しないと決めていた。勿論これらについて天下り的にモデルを置くことで、よりスムーズになるのを好む人たちを多く知っていたが、彼はその人々よりも若干懐疑的であったのだ。自らの実験手法が多くの不確かな点や最適化されていない点を含むことは承知していた一方で、そこにイデオロギーや時代の雰囲気までをも取り込むのは単に彼の趣味でなかっただけだ。

 網膜のように鮮明な計算機の画面には、彼が昨夜回しておいた模擬計算の結果が映っていた。一通り最終行までデータが瑕疵無く出力されているのを確認して、口の中で安堵の言葉を発した。グラフに描いてみたが、都市にずっと居続けた自身の直観ともまずは矛盾しなかったため、瞼を一旦下ろし、おもむろにソーサーから銀の帯が走るカップを持ち上げ、チャイを注ぎに行った。チャイは生姜の味が強すぎて、生姜だらけのチャイを好んでしまう人々の影響を感じたが、目を閉じるとそれも頭から消えてしまい模擬計算結果と実世界の値の誤差の小ささはどれ程かという点に関心が移った。彼は早速誤差を求め、地図上にヒートマップとして描いてみた。数年前の地震により都市素の湧き出しが起こった箇所以外はおおむね二パーセント以下に抑えられており、彼がいつも参照している論文誌を取り巻く界隈にとってみれば十分に予言できているとして良いだろう。書きたい途中式を空中に指で数行なぞった後、彼は満足した様子でこれを共有しようと決めた。

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 周囲に座っていた五人程を招き、彼はスクリーンに映ったグラフの説明を始めた。同僚たちは市民としての教養を各々が具えていたが、それは何ら特別のものではなく、首都のこの界隈ではほんの当たり前の能力として受け止められていた。五人のうち何人かは電気や電子の博士号を持っていたが、これは工学の分からなかった彼にとって尊敬すべき素養であった。他の三人についても東欧史か、遠方銀河か、音声認識についての博士号を保持するくらいには、洗練された普通の市民であるのだった。好みも性格も、――そして容貌も―― 誰ひとりとして似通ってはいなかったが、ここでは自由が保障されていた。
 彼は今週考えていた式が、以前のものに比べてどう変わったか、そして元となった着想が如何にして得られたかを簡単に追った後、そのシミュレーションの誤差について得られた値たちを平たく何の感慨もなしに読み上げた。前に比べて自由度が二ほど下がってしまっているが、この誤差の小ささは大きな向上と受け止められた。うち一人からこのモデルの別の応用例を思いついたとの説明があり、関連しそうな文献をその場で調べて二編挙げては、今回の考えが十分に新規性を以て適用できそうであると示してくれた。その後、幾つかの重要な指摘を受け、最終的に論文にまとめようと意見を一致させ、議論を終えたのだった。彼は静かに満足げな笑みを浮かべながら礼を言った。

 再び机についた彼は、早速導入の文章を練り始めた。実は前の週末に輪郭を考えていたためこの作業は幾分か流暢に進み、ほんの数十分の後には書き終えてしまった。導入を終えたところで、時計が午後の三時を回っていたので彼は近くに置いていた組版の本を手に取り菓子をつまみ始めた。目の前の取り組むべき課題と直接は関連しないが、エジプト的な文字の姿に惹かれたので文字の事ばかりを考え始めた。彼の思い描くエジプシャンからは近代の革命下のパンの匂いがしたが、今日だけはもっと繊細な、セリフに敷き詰められた上品な印刷物の表題のみをそっと飾るようなエジプシャンの匂いを確かめていた。時々、この妄想があまり生産的でないと思ってはチャイを口に運び、またエジプシャンで視界をいっぱいにするのであった。暫くして、街のデザインを見に行きたくなったため、今日の仕事はお終いにしようという考えが浮かんだ。半時ほど経った後、軽く挨拶をして荷物をまとめ、まだ三時半にも関わらず白色の部屋を後にした彼は首都のメトロに飛び乗った。

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 一昨日導入から書き始めた論文は、文章の推敲よりも図の推敲に時間を取られていたが、それ以外の特筆すべき淀みはなく書き進められていた。そして、彼はこの日も何もしない夕方に満足していた。ついさっきまで異性の友人と味気のしない肉を控えめに頬張っていたが、そもそも予定は収束させるべきだと考えた彼はこの友人と二人で部屋に帰ってきていた。彼女のセーターの肩の側面に手を添え唾液を交換しては、口からか弱い声で発されるオカルトの話に興味深さを覚えて耳を傾けていた。
 彼女は、彼女自身も殆ど信じていない想像上の大陸の話を続け、それをしきりに、そして肯定的に、自分が育った地域が外から語られる際の民俗学のアナロジーで説明していた。説を強く肯定する事はなかったが、何らかの未発見な地域なるものがあってもおかしくはないし、否定をするのには勿体無いと言った。彼はそんな彼女の洞察能力に日頃から敬意を払っていて、心身ともに触れられる事に満足を覚えていた。それから、まもなく学部を出て来春に行くことになるという首都の真北の外れに位置する研究所の人々の話を聞かせてくれた。恐らく彼が生きている間には決して彼女を取り巻く境遇に近づくことはできまいと思いながら、遥か年下の彼女の優秀さに対する嫉妬と肯定的な憧れを胸に秘めながら動きを続けた。頭が素早く回転する彼女に幾度とそれを察され、その度に頭を撫でられてはやはり嫉妬するのだった。
 暫くしてお互いに欲のない平静を取り戻し、ぐったりと体を横たえて倒れ込んでいると、か細い声で添い遂げたいという話をされたが、彼はその言葉をたいして信じてはいなかった。何故なら彼は一方的に気を遣われているだけだと感じていたし、結局のところ彼には何も未来が描けなかったからだ。ただ、その場の仮初の優しさの方へ目線を委ねながら進展を諦めつつ、友人にこれ以上の興味を持たないようにしたいと改めて考えた。

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 論文を書き始めて一週間が経った。出来上がった草稿を幾度か同僚に見てもらい、思いもかけない抜けに幾つか気付かされてはその度に感謝を覚えつつ、やはり順調に進められていた。恐らく、このまま行けばプレプリントサーバに遅かれ早かれ上げられるだろう。この日、彼は最寄りの駅の傍にあるカフェで、異なる無為を楽しんでいた。黒い金属のフレームの中に白色の弱い光が灯ったランプが安楽椅子ごとに配された、窓のない暗いカフェであった。半年前から気が向いた時だけここに腰を下ろしては鞄に忍ばせている集合論の本を読み進めていたので、店の人間とも何となくは顔を覚えあっていたが、それでも今日のダッチ珈琲の具合以外は特に知らせて来ない距離感が心地良いと彼は感じていた。三度に一回はここの特徴であるリキュールのようなダッチ珈琲の味が変わるということに気づいていたが、彼にとってはちょうど良い違和感であった。
 開集合系の性質を並べてある項を読み、一つの行間に五・六行あまりの落書きを追加しては、気まぐれで前の章へもう一度戻る。彼は数学科へ行かなかった事を薄く後悔しながらも、目の前の記述を読める能力がまだ少しだけでも残っている事が嬉しかった。それから彼は、定理の証明がいつものように「簡単であるから読者に委ねる」と書いてある所に当たってしまったタイミングで本と瞼を閉じて考え始めた。
 この日はまもなくして家の書斎に移ったが、やはり瞼を閉じていた事に変わりはなく、程なくして眠ってしまった。

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 視界が特に明瞭な日だった。白い壁にあふれた街路のギャラリーでは、モノクロームの写真ばかりをあつめた展示をやっていた。彼はハイコントラストなものが好きな、同い年のモデルのような細い身体を持った女の子とここで落ち合った。幾つかのざらざらした質感豊かな写真の前で立ち止まっては、二人とも想い想いの感想を投げあっていた。お互いに相手の感想に対して異議を唱えなかった、というよりはそこまで相手の意見を咀嚼していなかった。写真も人間関係もサラサラしていて何の粘り気もなかったし、彼が生きている世界はどの場面を切り取ってもリバタリアニズムで溢れていた。自らの知りたい事・興味のある事は無限に存在していたが、それは彼に関わりのある人々も同じで、知るべきことと作るべきものは彼ら一人一人にとって無尽蔵だったのだ。彼らは人と干渉するが、それは専ら干渉に値すると判断した対象事物に面した時のみであることを許されていた。美しくて明瞭な視界は常に自分の中にあったし、この淡くて自由な社会の事は嫌いではないと思ったのだ。

 この世界はもう暫くの間思索の時間を取り続けるのに値するものだと、彼は感じた。